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標本保管室

標本室用語説明

用 語 意 味
愛知教育博物館
(あいちきょういくはくぶつかん)
日本初の私立博物館。明治25年(1892)に、奈良坂源一郎が主催した有志の教育博物会浪越博物会の会員が蒐集したコレクションをもとに、児童の教育用に標本を公開する目的で設立された。明治34年(1901)に閉鎖となり標本と建物は明倫博物館に継承された。
愛知県立明倫中学校附属博物館
(あいちけんりつめいりんちゅうがっこうふぞくはくぶつかん)
愛知教育博物館を前身とする明倫博物館は、明治34年(1901)徳川家の藩校を前身とする明倫中学校の附属博物館となり、名古屋市内の徳川義礼邸内に、標本の移動と建物の移築が行われた。一時、徳川家直営の時期を経て、大正6年(1917)には尾張徳川家から愛知県に移管され、愛知県立明倫中学校附属博物館となった。しかし、その後校地移転等の問題から、博物館は閉鎖され、標本類は愛知県立明倫中学校を経由して、大正15年(1926)学習院へ寄贈された。
犬養毅
(いぬかいつよし)
安政2年(1855)~昭和7年(1932)。明治時代の政治家。初め新聞記者で、明治23年(1890)の第一回選挙から衆議院議員に連続17回当選。国民党や革新倶楽部を結成し、立憲政友会総裁などを務める。文部大臣、逓信大臣を歴任し、昭和6年(1931)内閣総理大臣となるが、翌年五・一五事件で暗殺された。
液浸標本
(えきしんひょうほん)
生物を、ホルマリンやアルコールなどの薬液に浸して作った標本。水分量が多い等やわらかい生物、またそうした組織を標本とする際にこれにする。
掛図
(かけず)
教育用の地図や絵、図などを、掛け軸のように表装し、黒板や壁などにかけて、一度に大人数の人が見られるようにしたもの。明治5年(1872)の学制発布により全国に小学校ができたことにともない、翌年から教材として広まった。
華族
(かぞく)
明治時代に設けられた身分制度で定めらた身分の名称の一つ。明治2年(1869)に、江戸時代まで公卿・諸侯であった人がこれにあてられ、同17年の華族令により、華族の中に公・候・伯・子・男の爵位が設けられ、国家に勲功のあった政治家・軍人・官吏・実業家なども華族となることが可能になった。華族は、種々の特権を有し、皇族の下、士族の上に位置し、皇室の藩屏たることや、四民の模範となることなどが求められ、制度は昭和22年(1947)まで続いた。
株式会社島津製作所標本部
(かぶしきがいしゃしまづせいさくじょひょうほんぶ)
初代島津源次郎が、明治8年(1875)京都木屋町二条南に創業した教育用理化学器械製造会社・島津製作所内に、明治28年(1895)から昭和19年(1944)まで存在した教育用標本の蒐集・製作・販売を行う部署。理科学器械に加え、動植物・鉱物岩石や、地理・歴史・工芸等人文系の品や模型など、国内外各地から教育用に活用し得るものを蒐集及び製作し、標本として販売した。標本部閉鎖後は、その技術を株式会社京都科学が受け継いだ。
骨格標本
(こっかくひょうほん)
動物の骨のみを取り出して作った標本。筋肉や内臓、皮膚などのやわらかい組織を、手術により取り除いたり、生物的又は科学的に分解させて作る。骨格標本にすることで、構造・形・配置から種の分類をしたり、骨格の発達や歯の摩耗から年齢を推定したりがしやすくなる。
坂本製作所
(さかもとせいさくじょ)
日本の近代の剥製師・坂本福治は、明治13年(1880)頃、海外から輸入された標本や文献を研究し、独自の剥製製作法を確立した。これは、坂本式剥製法として、日本の剥製業界に多大なる影響を与えた。坂本製作の標本は、帝国大学や帝室博物館に納められ、子の喜一はこれを引き継ぎ、宮内省御用の仕事も多くした。これらの剥製を製作する坂本製作所は、現在まで続いている。
腊葉標本
(さくようひょうほん)
植物を、平に押して乾燥させて作った標本。押し葉標本ともいう。一定の大きさの台紙に貼り、名称(和名・学名)や採集地、採集年月日など研究上の必要事項を記入したラベルを付ける。
田中芳男
(たなかよしお)
天保9年(1838)~大正5年(1916)。幕末から明治初期の博物学者。男爵。信濃(長野県)に生まれ、幕末には幕府の蕃所調所に出仕し、殖産学や本草学の研究を行い、慶応3年(1867)の第2回パリ万博では、自ら採集した昆虫を出品し現地の研究者の高評価を得た。維新後は、明治政府の官吏として殖産興業や博物館行政に尽力し、明治6年(1873)ウィーン万博や同(1889)の第4回パリ万博では責任者として日本の紹介をつとめるなどした。
東京帝室博物館
(とうきょうていしつはくぶつかん)
現在の東京国立博物館。明治4年(1871)、日本最初の博覧会のために湯島聖堂の大成殿を用いて開設した文部省博物館が、博覧会事務局との併合、移転、所管官庁の変更などを経て、同9年(1876)には博物館と改称し、この時館長に就任した町田久成が初代館長とされている。同15年(1882)に上野公園内に移転し、明治19年(1886)からは宮内省管轄となった。同22年(1889)に帝国博物館、同33年(1900)から帝室博物館と改称された。後、国立博物館を経て、東京国立博物館に改称。初期には、美術館、自然博物館、動物園、図書館などの機能をあわせもつ文化施設として機能したが、徐々に美術・歴史系の館に特化し、動物園が独立した大正13年に、自然科学系の資料を扱った(1924)天産部が廃止され、その資料は、東京教育博物館、東京帝国大学、学習院などに引き継がれた。
奈良坂源一郎
(ならさかげんいちろう)
嘉永7年(1854)~昭和9年(1934)。解剖学者で、博物学者。仙台藩士の長男として矢本町(現宮城県東松島市)に生まれ、明治14年(1881)愛知医学校の教諭となり、愛知教育博物館の創立に多大なる寄与をした。動物・植物・鉱物・化石などの標本蒐集や、博物学に関する教育普及を行った。また、精細な博物図譜を描いたことで有名。
剥製標本
(はくせいひょうほん)
動物の生きている時の外形を保って作った標本。主に皮膚や毛皮、羽毛など外面の素材を使い、内臓や筋肉を取り除き、かわりに充填材などを入れて作る。
牧野富太郎
(まきのとみたろう)
文久2年(1862)~昭和32年(1957)。植物学者。土佐(高知県)に生まれ、学歴は小学校中退でありながら、多数の新種の発見と命名を行い、後に理学博士の学位も得て、近代植物分類学の権威となった。著書に「日本植物図鑑」などがあり、アマチュア植物研究家の育成にも尽力した。日本の植物学の父といわれ、生まれた日は植物学の日とされている。
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