学習院大学日本語日本文学科4年 猪俣貴寛(08年 高等科卒業)
現在、学習院大学の日本語日本文学科に在籍して江戸文学を専攻し、来春からは旅行誌の出版社での仕事に就く予定です。趣味の方面では、自主制作しているフリーペーパーを都内各所に本屋に配るなど、楽しい日々を送っています。ところで僕の幼少時というのは、ボール遊びはからっきしダメなものの、本を読んだり文のようなもの書いたり、文字にまつわる事の好きな子供でした。振り返ってみれば、そういった元来の素質を、他でもない学習院中高の6年間が今の自分につなげてくれたと思うのです。
まず中等科での思い出の筆頭は、演劇部の部長をやり、部員を寄せ集めて文化祭で上演したところ、思いがけず「科長賞」なる年間団体賞を頂いたことです。その際、自作にこだわって徹夜でうなりながら書き上げた脚本がウケたことが自分の自信となり、「書く」ということの楽しみを初めて知りました。その後中高通じて、メンバーを集めては毎年妙な劇を文化祭で披露していました(縄文人の村に弥生人が稲作をもたらす設定の芝居など)。それから、高等科から部長をやった新聞部。ここでは好き放題楽しみました。先生にチョコでコーティングしたイカを食べさせたり、グラビア批評を載せたり、とにかく変な記事ばかり書いては印刷して生徒に配って喜んでもらうのがヤミツキになりました。その新聞を都の高校新聞コンテストに応募したところ、高等学校新聞連盟なるお堅い協議会から酷評が返ってきたことも、今となってはいい思い出です。とにかくそこでアマチュア新聞の快感にシビれてしまい、大学4年の今でもフリーペーパー作りがやめられずにいます。
高等科2年の夏から1年間は、米国・メリーランド州にある協定留学校のセントポール高校に在籍しました。滞在中は、アメリカ流の生活や現地高校の勉強に触れたり、相変わらずも演劇の脚本を書いてアメリカ人の生徒に演じてもらったりと、様々な経験を重ねました。ところがアメリカの暮らしにも慣れてきた留学の後半ごろ、自分がいかに日本に関して外国人に語るだけの知識を持ち合わせていないかをしみじみと感じるようになり、もっと自国の文化を勉強したいと思うようになりました。帰国後、その思いがきっかけで学習院大の日本文学科に進学し、(留学を経て、国際政治や英文学でなく日本文学というのも珍しいパターンではあるのですが、)この学科選択がうまいこと自分の興味にハマりました。入学して学んでみると、自分の性質に合った江戸期の戯作文芸や町人文化の世界と出会い、「これぞ卒論のテーマだ!」と胸を張れる題材を得ることとなりました。これも、高等科が世界に視野を拡げる機会を与えてくれなければ出会わなかった道だったかもしれません。
それから、先生です。今思えば、日々受けていた普段の授業というのは、先生方の高い専門的知識によって練られたレベルの高いものでした。とくに国語や倫理・歴史といった文系科目は僕の知的好奇心を絶えず満たしてくれ、文学部進学の動機となったのを覚えています。それぞれ自らのテーマ研究を経て教員となった学習院の先生の特徴は、やはり「専門性」です。学者タイプのような人も多く、先生方の自主論文を集めた「紀要」を出しているのも高等科のいい所です。何より、なにげない授業の脱線なんかが意外に含蓄に富んでいますし、教室の外でも先生が生徒にとりとめのないヘンな話をしてくれるのです。それから高等科時代は、先生のほとんどが僕たちの書いた新聞を見ては「これは面白かったねー」「今回は手を抜いたでしょ」などとニヤニヤして面白がってくれていました。それを聞いて、「あ~、こういう面白い大人が面白いと言ってくれてるんだから、こういうのやってていいんだな~」などと思い、ますます自分の好きな道に精を出していました。
まさに、「出る杭を温かく見守る校風」といいましょうか。僕はしばしば人から、「なんだかよくわからないけど、とにかく昔から一貫性あるね~」と言われますが、中高の環境がうまいこと伸ばしてくれたおかげで変わらぬ興味を持ちながら今現在まで来られました。学習院に入ったら、豊かな環境でスポーツに打ち込むもよし、大学の進路をじっくり見据えて勉強するもよし。僕の場合、面白い仲間たちと、それからそれぞれの道に詳しい(ヘンな)先生たちに囲まれて、マイナー文化系のやりたいことをやりきった中高6年間でした。かくして、ここにも一人「学習院・純粋培養"ヘンなやつ"」が生まれたというわけです。