主なメニュー



卒業生からのメッセージ

全力で駆け抜けてきた三年間

2015年度卒 飯室 陸

 高等科の写真に写っているのは、真っ黒な肌、丸坊主の自分の姿。そう自分は、高校球児だったのだ。 
 思えば入部当初、自分はどうしようもないほど下手くそだった。そんな自分だが、高校生の時よく母から言われていた言葉がある。それは、「あなたは、人の何十倍も努力してようやく他人と同じラインに立てるのよ。」自分はこの言葉を胸に、二年半不器用ながらも全力で駆け抜けてきた。自分たちの代は、最後の夏の大会でベスト16まで進出した。ベスト16を決めた瞬間は、一生忘れることの出来ない感覚だった。しかし、自分にとってベスト16という功績よりも、少ない人数の中でグランド内外で汗をかき、白球を追いかけ、みんなで築き上げてきた二年半という日々の方が大きな誇りであり、高等科での一番の思い出だ。
 野球部に入って一つ分かったことがある。それは努力は報われなくても価値のない努力はないということだ。自分は、最後の夏にレギュラーを取れなかった。それ自体一生悔やみきれないし、自分の努力を全て否定された気がした。しかし、こうして引退して見た時、とてもやりきった気持ちになれた。なぜだろうか。それは、最後まで同じ情熱・モチベーションで努力をし続けられたからだと思う。目標は達成されずとも、努力をし続けることは、必ず何かを見出してくれる。自分はこのことをしっかりと胸に刻んでこれから先を進んでいきたい。

別に褒めてはいませんが...

平成22年 高等科卒業
学習院大学 心理学科 3年
鈴木香里武

 僕は高1の冬に、突然金髪にしました。今風のカッコイイ髪型ではなく、古臭いオスカルみたいなイメージです。校則に違反していないとはいえ、世間一般から見ると、「何かに反抗している」、「不良だ」、「チャラい」といった印象を持たれるでしょう。金髪での登校初日、高等科の先生方からかけられた言葉は、「お、いいじゃんそれ!」、「ベニスに死すみたい」など。極めつけは「欧米か!」でした。高等科とは、そのような学校です。
 僕のことではありませんが、同級生には「変わり者」もいました。つまり、大多数の人から見ておかしな言動をする人です。普通ならいじめられたり、無視されたりするタイプなのでしょうが、高等科は違います。その人のありのままを、クラスメートは受け入れています。「変わり者」という概念は、生まれてもすぐに消えてしまうのでしょうか。高等科とは、そのような学校です。
 文学部心理学科への内部進学を決めた僕にとって、高3の数学の授業、微分や積分といったものは、将来役に立つ勉強とは思えませんでした。ただ、担当の先生の数学に対する愛情がすごいんですね。僕らに教える以前に、まずご自身が問題に酔っていらっしゃった。そうすると、不思議なものです。教える側が教える内容に強い魅力を感じていると、教えられる側にも魔法のように伝わって来て、いつの間にかのめり込んでしまうのです。高等科とは、そのような学校です。
 僕は同級生との付き合いが悪く、部活もしていなければ、昼休みに皆と遊ぶこともほとんどありませんでした。典型的な、埋もれるタイプの生徒ですね。それでも、先生から心配されることはありませんでした。学校以外の時間、僕は秘密結社を作っていたほどご縁に恵まれていたからです。目に見える学校生活のみで判断されていたら、心配されたことでしょう。高等科とは、そのような学校です。
 大人はよく、子どもに対して「正論」を言います。例えば、「社会に出たら辛いこともたくさんあるから、今は学生として精いっぱい楽しみなさい」とか、「まだ若いから、焦らず、まずは自分についてよく考えて、自分を磨いていきなさい」とか。今と将来とを分けて考えた意見です。学生のうちに社会に関わるような取り組みを始めると、「まだ早い」、「中途半端だ」と決めつけられることが多い世の中です。僕は高等科生のときから仕事の準備をしていましたが、先生方は「おもしろい」と言ってくださいました。そのおかげで、予定通り大学1年で起業できました。高等科とは、そのような学校です。
 高校生は、それぞれ何かしらの専門分野を持っています。趣味と言った方が良いでしょうか。ある人は音楽、ある人は美術、ある人は動物。各々がその分野において「先」に「生」きています。高等科の先生方は、生徒と対等に話してくださいます。だからなのでしょうか。皆、先生の名前を呼ぶとき、「○○さん」と呼びます。高等科とは、そのような学校です。
 時々、無性に高等科に遊びに行きたくなります。高等科とは、そのような学校です。


高等科で学んだこと

学習院大学理学部物理学科3年 加藤 孝信(09年度高等科卒)

最近、高等科時代に温めてきたものが、次々と花を咲かせている。その最たるものが、今春の"全日本自転車競技選手権大会ロードレース"出場です。

「何をしても自由」
そんな高等科は、僕にとって、とても居心地のよい学校でした。
めちゃくちゃ頭のいい人もいるし、音大並みのアマチュアピアニストもいる。なかには、プロ並みに写真が上手い人もいた(彼は撮影のため全国に行っていた)。そして、個性的な生徒に負けじと、個性的な先生もいらっしゃる。
そんな中で、僕は高等科3年間全てを、趣味を追求してゆく時間として過ごしました。

中等科の頃、親の方針もあり、僕はたくさんの習い事をしていました。その頃、Jr.オーケストラの先生が「今は色々な事をやってみて、将来そこから3つくらい選べばいいのよ」と言って下さいました。
そして、高等科生になった僕は「自転車・カメラ・バイオリン」を選んだのでした。それこそ、勉強なんてそっちのけで「本気で」打ち込んだものでした。晴れた日の夜は、20cmもある望遠鏡を据え付け、家の屋上に毛布を引き、カメラと双眼鏡を手に夜半まで寝転がって星雲観察をして、母を本当に困らせたものです。

趣味の中で、特にバイオリンなどは、子供の頃は辞めたくてやめたくてしょうがない時もありました。しかし、親に叱られ続けていくうちに、上手くなっていき、そのうち自ら進んで練習するようになりました。そうすればしめたものです。やりたいから上手くなる、上手くなるからやりたくなる。そして上手くなると、また違う世界が見えてきます。そうやって、「継続する事」の大切さを学びました。

高等科3年の鳳櫻祭では、そうやって学んだ(世間的にはムダといわれる)知識を精いっぱい活かして、パンフレットの作成および、後夜祭の手伝いをさせてもらいました。賛否両論ありましたが、ポスターとパンフレットの写真は渋谷のスクランブル交差点で撮影。渋谷にたまたま居合わせた高等科生の友人に撮影を手伝ってもらったのは懐かしい思い出です。そしてモノクロフィルムも、自分で好みの現像を行いました。そして、パンフレットの印刷は、高等科OBの方の印刷会社にお願いしました。
ひと夏を丸々費やして、かなり好きなようにさせてもらったポスター・パンフレット制作。いつも、物事を中途半端で終わらせていた僕にとって、最後まで一貫して責任を持って製作し、それが皆に批評されるということは、新鮮な喜びでした。

話は変わりますが、最近大学の理学部図書館で懐かしい本―天体の位置計算―を見つけてしまいました。
高等科1年の頃、プラネタリウムを作るため、その本を片手に天体の座標変換のプログラムを書いたものの、動かず、鳳櫻祭で動かないプログラムを「ここまでやりました!」と展示したのは、今となっては良い思い出です。
そう、僕は高等科時代、地学部の活動の一環として、まだ誰も作ったことのない変則的な構造(12筒式と命名)のプラネタリウムを作ることに没頭していたのでした。当時は、幸いな事に周りからの理解が得られ、豊富な予算を割り振っていただくことが出来て、随分とやりたいように設計させてもらいました。
本当に、誰も作ったことが無いものなので、自分で一から図面を引きました。レンズ1つにしても、レンズ会社を回り、時には必要な性能を伝え、見積もりを出してもらいました。そして、秋葉原を回り、電子部品を買い集めました。LEDなどは、性能を満たすために、アメリカから輸入しました。そして、それを皆で組み立てたのです。そうして3年間掛けて皆で作り上げたプラネタリウムは、壊れやすく、レンズの性能が低かった事を除けば、高校生にしてはなかなかの物が出来たと思います。(今では笑い話ですが、製作が当日早朝までずれ込んで、毎年のように鳳櫻祭当日は大寝坊をしていました...)
しかし、今の僕にとっては、その評価はどうでも良いことです。それよりも、それを作り上げる過程で、重要なことをいくつも学びました。目標を達成するにはどうすればよいか、リーダーはどうあるべきか、周りの理解を選るにはどうすればよいか、チームの士気を上げるにはどうすればよいか、などなど・・・それらに答えなど在る訳もないが。そして、解らなければ考える。誰も作った事が無いのだから、教科書など無い。人が出来ないのなら、自分が考えるしかない...

そんな訳で、僕は高等科の頃、殆ど勉強をしませんでした。しかし、そうやって生まれた自由時間に様々なことを経験し、学びました。得た友人、楽しかった時間、そしてそれから学んだ物は、僕の一生の宝物です。そして、それは今も僕の中で息づいていて、役に立っています。

大学生になってから本格的に打ち込んだ自転車競技。自転車とプラネタリウム・バイオリンは全く違うものです。途中、怪我で1年以上リハビリもしましたし、実験が忙しく全く練習できない期間もありました。しかし、そうして学んだことがあったからこそ、自転車では強い意志を持って高い目標を達成することが出来ました。

そんな僕ですが、小さい頃からの夢は、エンジニアか研究者になることです。現在は、次に自分がやるべきことを考え、勉強と練習・趣味とを両立すべく、限られた時間を無駄にしないよう、日々努力をしている毎日です。


出る杭を温かく見守る校風

学習院大学日本語日本文学科4年 猪俣貴寛(08年 高等科卒業)

 現在、学習院大学の日本語日本文学科に在籍して江戸文学を専攻し、来春からは旅行誌の出版社での仕事に就く予定です。趣味の方面では、自主制作しているフリーペーパーを都内各所に本屋に配るなど、楽しい日々を送っています。ところで僕の幼少時というのは、ボール遊びはからっきしダメなものの、本を読んだり文のようなもの書いたり、文字にまつわる事の好きな子供でした。振り返ってみれば、そういった元来の素質を、他でもない学習院中高の6年間が今の自分につなげてくれたと思うのです。
 まず中等科での思い出の筆頭は、演劇部の部長をやり、部員を寄せ集めて文化祭で上演したところ、思いがけず「科長賞」なる年間団体賞を頂いたことです。その際、自作にこだわって徹夜でうなりながら書き上げた脚本がウケたことが自分の自信となり、「書く」ということの楽しみを初めて知りました。その後中高通じて、メンバーを集めては毎年妙な劇を文化祭で披露していました(縄文人の村に弥生人が稲作をもたらす設定の芝居など)。それから、高等科から部長をやった新聞部。ここでは好き放題楽しみました。先生にチョコでコーティングしたイカを食べさせたり、グラビア批評を載せたり、とにかく変な記事ばかり書いては印刷して生徒に配って喜んでもらうのがヤミツキになりました。その新聞を都の高校新聞コンテストに応募したところ、高等学校新聞連盟なるお堅い協議会から酷評が返ってきたことも、今となってはいい思い出です。とにかくそこでアマチュア新聞の快感にシビれてしまい、大学4年の今でもフリーペーパー作りがやめられずにいます。
 高等科2年の夏から1年間は、米国・メリーランド州にある協定留学校のセントポール高校に在籍しました。滞在中は、アメリカ流の生活や現地高校の勉強に触れたり、相変わらずも演劇の脚本を書いてアメリカ人の生徒に演じてもらったりと、様々な経験を重ねました。ところがアメリカの暮らしにも慣れてきた留学の後半ごろ、自分がいかに日本に関して外国人に語るだけの知識を持ち合わせていないかをしみじみと感じるようになり、もっと自国の文化を勉強したいと思うようになりました。帰国後、その思いがきっかけで学習院大の日本文学科に進学し、(留学を経て、国際政治や英文学でなく日本文学というのも珍しいパターンではあるのですが、)この学科選択がうまいこと自分の興味にハマりました。入学して学んでみると、自分の性質に合った江戸期の戯作文芸や町人文化の世界と出会い、「これぞ卒論のテーマだ!」と胸を張れる題材を得ることとなりました。これも、高等科が世界に視野を拡げる機会を与えてくれなければ出会わなかった道だったかもしれません。
 それから、先生です。今思えば、日々受けていた普段の授業というのは、先生方の高い専門的知識によって練られたレベルの高いものでした。とくに国語や倫理・歴史といった文系科目は僕の知的好奇心を絶えず満たしてくれ、文学部進学の動機となったのを覚えています。それぞれ自らのテーマ研究を経て教員となった学習院の先生の特徴は、やはり「専門性」です。学者タイプのような人も多く、先生方の自主論文を集めた「紀要」を出しているのも高等科のいい所です。何より、なにげない授業の脱線なんかが意外に含蓄に富んでいますし、教室の外でも先生が生徒にとりとめのないヘンな話をしてくれるのです。それから高等科時代は、先生のほとんどが僕たちの書いた新聞を見ては「これは面白かったねー」「今回は手を抜いたでしょ」などとニヤニヤして面白がってくれていました。それを聞いて、「あ~、こういう面白い大人が面白いと言ってくれてるんだから、こういうのやってていいんだな~」などと思い、ますます自分の好きな道に精を出していました。
 まさに、「出る杭を温かく見守る校風」といいましょうか。僕はしばしば人から、「なんだかよくわからないけど、とにかく昔から一貫性あるね~」と言われますが、中高の環境がうまいこと伸ばしてくれたおかげで変わらぬ興味を持ちながら今現在まで来られました。学習院に入ったら、豊かな環境でスポーツに打ち込むもよし、大学の進路をじっくり見据えて勉強するもよし。僕の場合、面白い仲間たちと、それからそれぞれの道に詳しい(ヘンな)先生たちに囲まれて、マイナー文化系のやりたいことをやりきった中高6年間でした。かくして、ここにも一人「学習院・純粋培養"ヘンなやつ"」が生まれたというわけです。