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高等科ミュージアム

1年生 多田先生講演事前作文 

リゾートと基地   1A14 櫻井 裕己

 僕は今まで、沖縄へ行ったことがない。だが、この多田先生の本、「沖縄イメージを旅する」にも書かれているように、沖縄に対して「リゾートと米軍基地の島」というイメージはずっと持っていた。しかし、僕はそんなに海や南国が好きなわけでもないし、戦争のことにもあまり興味はなかったので、それ以上のことを知ろうとはしなかった。実際、今回この課題を出された時も特に沖縄のことを調べようとは思わなかった。しかし、一度この多田先生の本を読み始めると、最初の数ページから色々なことに気付かされ、考えさせられた。そもそも僕が今まで持っていたこの「リゾートと米軍基地の島」というアバウトなイメージは、よく考えてみると「癒し」と「戦争」という矛盾する二つが成り立っている。僕は自分の持っていたイメージの矛盾にも気付かなかった上に、この本を読み進めていくうちに、今まで知らなかった「沖縄」という地の「表」と「裏」の現実に直面していき、自分の無知さを思い知らされた。僕の認識としては、沖縄は日本の都道府県の内の一つというものだったが、だんだんと沖縄という地が歩んできた道が明らかになるにつれて、環境や文化など、色々な面においてほかの県とは全然違うということが分かってきた。歴史をさかのぼると、沖縄は元々琉球王国という日本とは別の国だったし、第二次世界大戦後も長い間アメリカの支配下に置かれていた。このような前から知っていた事だけを考えても沖縄は日本でなかった時間が長く、今考えると他の県と並べて考えること自体が間違っていると思う。また、こうした歩んできた歴史の違いなどが「ナイチャー」と「ヤマトゥンチュ」という区別を生み出す一つの要因になったのではないか。
 今回僕はもう一冊、池上永一さんの小説を読んだ。この小説には沖縄の人々の生活が描かれていて、この話にも僕の知らない「沖縄」がたくさんあった。この本を読んで考えたことは、沖縄の人々は僕達本土の人々のことをどう思っているのかということだ。物語のほんの一部分で主人公の沖縄から本土へ行った人々に対する怒りが描かれているシーンがあった。物語の中心部ではないのだが、僕はその内容に衝撃を受けた。この時僕は初めて本土の人々と沖縄の人々の間に考え方の違いという壁があるのを感じた。
 今度僕達は修学旅行で沖縄へ行くが、忘れてはいけないのは、「ツーリスト」として行くということだと思う。多田先生が著書の中で言っているように、僕達本土の人間の「癒しの沖縄」というイメージは、こちら側本土の人々が沖縄に求め、押し付けている理想なのだ。僕はこれまで「沖縄」という地を自分のイメージと想像で形作ってきた。だが、それは沖縄の表層部であり、「現実」ではない。今度僕が沖縄に行く時は、自分の沖縄に対するイメージをできるだけ捨てていくべきだと思う。また、あまり長い時間滞在はできないと思うので、沖縄の裏側まで知ることはできないかもしれない。だが、自分でしっかりと「沖縄」を見て、実際に感じられたらいいと思う。



沖縄小論文
「沖縄と日本」1A39 山本 大


 「沖縄は日本の領土である」ということ今では僕にとっては当たり前のことであった。いや間違ってはいない。むしろ正しいことのはずである。しかし本当の意味で正しいといえるのだろうか。
 沖縄といえば青い空、透き通った海、さんさんと照りつける日差し、まっしろな砂浜、赤いハイビスカス、赤瓦の屋根、その家を囲む石垣、ゴーヤーチャンプルー、泡盛、三線や島唄などの癒しのリゾートのイメージがある。またそれに加えて忘れてはいけないこと
基地と戦争の過去と現実を色濃く残した島々であるということである。
 沖縄は古くは琉球王国であったが17世紀初頭に薩摩藩に征服され、1879年琉球処分にて沖縄県となり、日本に併合された。その後大正時代頃からひそかに人気がではじめて、戦後は一時アメリカの領土となりパスポートがなければ行き来することはできなくなった。暫くののち1972年沖縄は日本に返還されることになり、さらに日本が代表する観光地となった。
しかし全国の米軍基地のおよそ75パーセントが沖縄に占められるという厳しい現実がたちはだかっているのは今も同じことだ。
 来年に僕たちは沖縄研修旅行で沖縄の地を訪れる。しかしウチナー、つまり沖縄の人にとって、ナイチャー、ヤマトつまり県外から訪れる僕たちは旅行者、ツーリストの立場である。そのなかでどれだけ沖縄のことについて理解しようとできるのか?表層的になりがちな僕たちの視点をどれだけ深くしていけるかが大事なことではないかと思うのだ。
 まず沖縄の文化や慣習について考えてみたいと思う。一つ僕が自分なりに思ったことは独特の温かみあるということだ。そしてよく家族との結びつきが強く、一緒にする行事が多いということだ。それは今でも変わってないということだ。今では日本の本土ではそういうような独特なことをするところは少なくなっているように思える。どこも一般化されて全国見ても同じように均一化してきているように思える。しかし沖縄では正月は「水撫でー」という家族そろって挨拶を行う伝統的な儀式があり、子供や親はお互いに要望や注意を受けるそうだ。
そのあとは親戚回りをするそうだ。
 またをなり神という姉妹が兄弟を守るという信仰もあり、年下が年長者によく世話をしてもらって育っていくという環境にある。特に「オバア」という存在は大きいのではないだろうか。「ちゅらさん」でも存在感があったようだ。家族の温かみが感じられた。
 それに加えて、沖縄の人ならだれでも踊れるという琉球舞踊など地域との交流も多いと考えられる。連帯感というものが存在する、同時に劇的な島の歴史を生き抜いてきた島の人々にとって大きなナショナルな組織とは別の強いきずながあるのかもしれない。そんな風に思うのだ。それは過去四回にわたって繰り広げられた「島ぐるみ闘争」にもよく表れていると思う。
だからこそウチナーとヤマトとの間にかべがあると感じるのかもしれない。沖縄は昔、琉球王国で中国と日本に両属の関係でその後も太平洋戦争ではアメリカ軍の上陸を許し、ひめゆりの女学徒など忌まわしい現実も目の当たりにしてきた。様々な国の都合や中央の意向によって、翻弄され続けてきたという過去を持つ。またそれは今も同じだ。日米の安保体制に沖縄ごと巻き込むような形で振興策と基地の問題との兼ね合いにより、利用されているという見方もできる。
 そもそも沖縄の人にとっては「日本人」という区分のなかで沖縄の人は分けて考える分類がありそれこそが、「ウチナーンチュ」と「ヤマトゥンチュ」の呼称である。琉球・沖縄が一つの国として繰り返し浮かび上がってくるような、特異性と潜在力を備え持つ場所といえるからである。そんななかで方言論争など本土の人と沖縄の人の考え、意見が食い違うこともあった。沖縄の人にとって潜在意識の中に自分たちが日本の植民地的な支配を受けているのではないかという思いあたりがあるのかもしれない。
 それでもサミットや海洋博を通じて沖縄人気は爆発的に増え、かつては沖縄病とよばれる人たちもいた。なぜそれほどまでに沖縄に引き寄せられるのか?
 今の米軍基地における日米関係においてもそうであるが、沖縄を通して日本をみることができるというのはひとつの着眼点である。沖縄に日本の失われた原点や本質を見出しているのである。沖縄に日本の本来の姿を投影し、鏡としてきた。しかしこれは一方的な強引な片思い的な側面もあり、本土と沖縄に溝があったこともある。
 具体的に沖縄に惹かれる理由は何であろうか?僕が考えるには、言葉を失うほどきれいな海をはじめとする南国の自然にまず、心惹かれる。しかし現実として南部戦跡や基地の問題がある。この状態が今の日本の状態ともいえるのではないかと思った。いままで日本が歩んできた軌跡が事細かに沖縄に影響し、目に見える形で表れているのではないかと思うのだ。沖縄が求められる理由である。最初はただ単に南国のリゾートとして入ってきたかもしれないが、その魅力に触れ、地域のことについて深く知りたくなる。そして沖縄の人々たちと触れ合う。島の現実や過去を目の当たりにする。その過程でどこかツーリストたちは日本の原点を見つけ、今の日本と照らし合わせる。そして理想の形とは何だろうかと考え、見出していくのではないだろうか。
 基地の問題と振興の問題は切っても切り離せない。なぜならば、基地移設を掲げる沖縄県民を鎮めるために行われてきたことといえば、リゾート建設などの莫大な事業投資と地域振興策であるからである。政府は何とか、援助をする代わりに怒りの矛先を収めようとした。開発、イベント、交通、観光の流れである。アメとムチの露骨なすり替えが行われてきたのだ。このようにだましだましに行ってきたことが、今の日本の姿勢に表れているのではないかと僕は考える。近年の日本の行き詰まりの姿かもしれない。
 さて、沖縄では戦後、「島ぐるみ闘争」と呼ばれる戦いが四度あった。「島ぐるみ闘争」とは子供から大人まですべての人々が参加する闘いである。たとえ事情があって直接は参加できなくても島中の人々がなんらかの形で参加するという闘いであるのだ。日米の関係に関することで基地問題や祖国復帰運動などが繰り広げられた。高校生は弁論大会が盛んにおこなわれ、教職員会などを中心に結集した。特に、第四の島ぐるみ闘争「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」での県立普天間高校校長の言葉に驚いた。「自分の教え子の身が危険に冒され、人間としての尊厳が奪われようとしているときに、まず教え子を守るために立ち上がれない教師を、わたしは信用しません」この言葉に全校の教師が奮い立ったのだ。沖縄県民の強い意志が感じられる覚悟の言葉だと思った。そして純粋に美しいなと思ってしまった。こんな状況にも人々は沖縄に惹かれるのかもしれない。
 また沖縄は、住民の政治意識が高く議会選挙への投票率も高い。それには沖縄独特の歴史的な背景があるのだと思う。前に述べたが、それはまとめると日米に政府による植民地的支配と差別構造に対する、沖縄住民の自治、参政権を求める粘り強い長い闘いの産物であると考えられる。1970年まで沖縄県民には本土国民と同等の参政権はなく、日本国政への参政権は一切なかったのだ。日本国憲法をはじめ日本の法律は適用されなかった。しかしこのような過去をもつから、島ぐるみ闘争のような県民一丸となった大衆運動がおこなわれるわけで、議会内での議論と民衆の総意が連動していかなければ政治の活性化や社会の変革は望めないと思う。
 ここで改めて沖縄と日本について考えてみたい。前にも述べたが沖縄は失われた日本の原点であるとか、日本を投影する鏡であるとか述べた。具体的にいうと沖縄にはあたたかい家族の結びつきや伝統文化、豊かな自然、戦争の過去、そして基地の現実がある。しかしこれは沖縄だけにあるものではない。もちろん日本のその地域ごとに伝統や慣習がある。これは至極当たり前のことである。しかし最近本土では近代化の様々な要因により、それが大事にされなくなり、失われつつあるのではないかと思うのだ。しかし沖縄を見ることによりこれまで日本が歩んできた軌跡、そして本来の姿を垣間見ることができるのだ。
これらが僕たちツーリストの感じることの出来る無限の可能性であり、そういう姿であるべきだと思う。


参考文献『沖縄イメージを旅する』 『沖縄生活誌』





「ユタにみる東京と沖縄」  1B10 大久保 朝寛


 沖縄県と言われて頭に浮かぶものと言えば美しい海や温暖な気候、首里城やシーサーなど東京とはまるで別世界のような県というイメージだ。また沖縄県には多数の米軍基地があるというのもよく耳にする。そんな沖縄県にも多数の文化が存在する。その中でも特に興味深かったのは「ユタ」である。
 ユタとは何か。ひとことで述べると一種の霊能力者のようなものである。どのような人がユタになるのかというと、元々霊感の強い人がある特殊な体験を経てなる。その特殊な体験というのは、受ける側にとっては幻聴や幻覚のような非常に苦しいものであるが、それは神様からユタになってほしいという信号を受けとる時に起こる物らしい。そしてその体験を経てユタになることを宣言すると修行に入り、その後実際に各地を巡礼し始める。
 こうして見ると、本当にそんな事があり得るのかと疑わしく感じる。東京では、霊体験をしたと言ってもそれは科学で解明できるなどと軽くあしらわれる。心霊写真が良い例だろう。また占い師に似ていると言っても良いかもしれない。実際に沖縄のユタは、各地依頼主の元へ出向き、様々な相談事にのった上で金をとる。はたから見れば嘘くさいと思うが、沖縄県では多くの人々がこのユタという存在を信仰しているというのだから驚きである。ユタを生活の一部として取り入れ、時には探偵のような、また医者のような依頼をする。恋愛沙汰を依頼するのはまだしも、病気の手術日までみてもらうという事実に僕は驚いた。実際にユタのお告げを信じ手術日をずらした結果亡くなってしまったという元も子もないような事例さえもある。これはもう一種の中毒的なものではないだろうか。しかしある本には「カウンセリングに似た面もあるかもしれない」と書かれていた。確かにそう言われて見ると一種のセラピーのようなものであるとも考えられる。不安な事をユタに話すことで一種の安心を得ているのかも知れない。だが時と場合を考えて適度にユタを使う方が良いと思う。
 ここまで沖縄県のユタについて述べたが、東京の場合はどうだろうか。
 さきほど述べた通り、霊体験の類いはあまり信用されていない。むしろ全くといっていいかも知れない。では東京でのユタに該当するものは何だろうか。やはり占い師だろうか。僕はさきほど述べた通り、占い師とカウンセラーに相当すると考える。ユタはお告げを受ける前に儀式を行うそうだが、それは占い師における、タロットカードや水晶玉のようなものであると考えられる。また、ユタに話す事で依頼主の負担も軽減されると考えられるからだ。しかし東京の占い師と沖縄県のユタでは大きく異なるものがある。それは信頼度だ。東京では占いは当たればいいなあ程度のものであるが、沖縄県のユタの場合、生活の一部を預けたり、それこそ中毒状態になったりする者もいることから絶対的な信頼度であることがうかがえる。この違いはどこから生まれてくるのだろうか。理由の一つに、僕は県民性(都民性)であると考える。東京の人と言えば忙しいというイメージがある。仕事や日々のストレス故に他の物事、ましてや占いなどといった実体のつかめないものに対しては、いちいちかまっていられない、というのが僕の印象である。一方で沖縄県の人々と言えば温暖な気候故に大らかで楽天家が多いというイメージである。そういった性格ゆえに東京の人々と比べて心にゆとりがあるためにユタという実体のつかめないような存在もある種の宗教のように信仰することができるのではないだろうか。僕の読んだ本の主人公も大らかではたから見ると不思議に思われるような性格をしていた。多田治さんの本には「ツーリストは、どこまでいってもツーリストなのだ」と書かれていた。確かにそうかもしれない。事実東京の人のみならず本土の人々の沖縄に対する先入観が沖縄の人々を苦しめることもあったかもしれない。だがお互いに歩み寄っていけばよりよい東京と沖縄との関係を築けるのではないだろうか。僕はそう信じてる。

参考文献『バガージマヌパナス わが島のはなし』





沖縄のイメージと永遠の難問題  1B18 佐藤 夏樹
 
 『沖縄イメージを旅する』と、『バガージマヌパナスわが島の話』を読み、ウチナーとヤマトの関係、というものについて考えさせられた。
 『沖縄イメージを旅する』では、冒頭に、『...「ウチナー(沖縄)とヤマト(日本)」
という永遠の難問題...』とある。僕がこの言葉と出会った時、初めて、ウチナーとヤマト、という見方を知り、かつ衝撃を受けた。沖縄県が過去に日本とは別の国であったことは知っていたが、ウチナーとヤマト、という考え方は全く持っていなかった。かつ、失礼だと思うが、いまだにそのような考え方があることに衝撃を受けた。この衝撃を受けたのちに、『「ネイチャーに何がわかるのか」』という言葉を見ると、不安や、今までウチナーとヤマトという考え方を持っていなかった自分を恥ずかしく思った。
 読み進めていくと、『リアリティの二重性』という言葉に出会った。『「戦争と基地の島」と「リゾートと癒しの島」』なんて、リゾートばかりが頭の中にある僕からすると、思ってもみない言葉であった。しかしよく思い出すと、ニュースで米軍の軍人が起こす問題について報道されていた記憶があった。そう思うと、二つのリアリティというものはしっかりと全国にわたり伝えられている。だが、悪い側面には目をつぶって沖縄を見ていることが考えられた。『「観光」とは、文字通り、国の「光を観る」行為であった。』という一文にも表われている気がした。
 しかし、当初の戦後の沖縄の観光というのは、戦争の跡地が多かったという。今となっては、万博やJALによってリゾートと癒しというイメージが強い。当初の観光の際も、跡地を見るという名目で、リゾートや風俗街を楽しんだ人も多かったようであるが。だが、ここまでの変貌には何があったのだろうか。そこには、ヤマトの人々が持つ沖縄のイメージに、ウチナーが寄せていく、ということが起きていたのだった。そこで、『バガージマヌパナスわが島の話』の、仲宗根綾乃が出てくる。やはり、ウチナーの中には綾乃のように、沖縄がヤマト色に染まっていくように見え、反発する者も居たのであった。沖縄を南国に寄せていく行為は、まぎれもなく沖縄らしさを欠いていると感じたからであろう。
 『沖縄イメージを旅する』の第九章には、先ほどの沖縄らしさを求めて、移住する人々の話が出てくる。ヤマトの人間が、ウチナーの人々の生活に入ることは、様々な問題があるようだ。移住者が移住先の習わしに従わない、移住者のための住居によって、島の雰囲気が変わってしまう、などだ。沖縄らしさを、その景観に見出している移住者はそうなるだろう。しかし、すべての沖縄らしさ、を感じようとする、熱心な移住者もいるようだ。
 最後に、やはり沖縄を理解しようとすると、永遠の難問題を使わなければ、上手く理解は出来ないだろう。ウチナーとヤマト、と何度も言うのは気がひけるが、この二つはどこまで行ってもウチナーとヤマトのままであり続ける。二冊の本を読み、考えると、沖縄は沖縄のままでいてほしいと願うようになる。だが、その元の沖縄はもう失われかけているのではないか、という気になる。まだ僕は直接沖縄に触れたことがない。しっかりと一人のツーリストとして、沖縄を観ようと強く心に誓った。

参考文献 『バガジーマヌパナス わが島のはなし』池上永一 文春文庫





ウチナーンチュ意識    1C12 國分 瑞生

 来年沖縄に研修旅行に行く。なぜ修学旅行でないのか不思議だった。中三の春休み、私はニュージーランドに語学研修に行った。出発前にあらかじめ、国の歴史や国土、原住民マオリの風習や文化などを勉強した。郷に入っては郷に従えということで、よりよく過ごすために、コミュニケーションを上手く取るのに役に立った。お互い理解し合うために、日本の文化や自分自身のことも説明できるように英語を勉強して用意して行った。結果、全ての体験が初めてだったがとても有意義に過ごすことができ、新たな発見もあった。
 沖縄と一言で言っても、とても複雑で多様で、日本でありながら外国のように異なっていることがわかった。かといっても共通する部分も多く、本当の姿を知るのは難解だ。だからこその研修旅行なんだと思った。あまりに遠いため昔は交流がなく、戦後日本に復帰するまでパスポートがないと渡航できなかったのは驚きである。
 沖縄は歴史は古いが日本本土から離れていることで独自の風土をもとに固有の文化、言語、宗教がある。また、地理的に気候も違えばルーツも異なる。沖縄とアイヌは縄文人、本土は弥生人だというから違いがあるのも理解できる。
 アジアの交差点にあるから、多くの国々と友好的な交流を重ね、様々な文化を吸収して沖縄に合うように独自のものを作りあげていくアレンジ精神は、そのままチャンプルー精神になっている。そして、元の文化を失わずに新しいものをどんどん生み出していく。みんなを和の中に入れ、個性を活かし合っていく優しさがあるから争い事も起こらないという。鉄がとれず使用が遅れたことも穏やかな性質を作ったという。一方、都会に行けば行く程、新しいものに飛びつくのは早いが流行もすぐ終わって忘れられていく。これはアイデンティティの所在がはっきりしていないからなのではないかと思う。本土との違いの一つは沖縄は伝統を基にしながら新たなものを構築していく点である。
 チャンプルー精神は、小さな島社会という環境で生き抜き、内外の摩擦のタネを排除するために生まれた知恵なのだろう。それは数々の苦難をいつの時代でもナンクル的な思考で乗り切ってきた歴史を見れば納得がいく。侵略から身の安全を図るために、一方に組しすぎることを本能的に用心するバランス感覚で身につけたのだろう。
 ナンクルナイサーという精神があったから過酷な歴史があっても沖縄のアイデンティティーを失わずにいられたのではないだろうか。いかに過酷だったかは、命のお祝いをするヌチヌグスージサビラがあることでよくわかる。「ヌチドゥ宝」は、ウチナーンチュ意識の特徴でもある。生き残った者が明るく生きていく義務があるという考え方は、明るい社会の要素になっており、ナンクル精神の根本になっているとも思う。
 このナンクルは、みんなで励まし合って共生していこうというヨコのつながり(例えば門中や模合)万事おおまかなテーゲー精神に通じている。相手も自分も追いつめないようにしてストレスを軽減し、心にゆとりをもって伸び伸び生きるための処世術だ。これはひたすら「効率」を優先し、「ゆとり」のない社会にいるヤマトンチュにはなかなかできないだろう。まして、なんぎーと、ちょっとしたことでも、面倒臭がるのは不思議だと思う。
 ヤマト(本土)はグルグル(迅速)でウチナー(沖縄)はダイダイ(スロー)というユッタリズムがストレスをためない秘訣であるが、方言はそこに住む人たちのアイデンティティであり、独自の文化や芸能などを支えている。同じ方言でも島によって方言も違うようだが、みなそれを使い、残そうという意識が高いそうだ。つまり伝統や信仰が好きで心地がいいのだろう。心地がいいから土地の習慣は変わりにくく、独創的な風習も保たれている。
 「時間の感覚」や「命のクスリ」である食文化や、異なる習性はウチナーとヤマトの溝や差別、偏見の原因という。確かにテンポが合わず戸惑ったり、グロテスクな食べ物や風習にはギョっとするだろう。でも、異文化間に優劣や善悪や上下などないと思う。なぜ差別や偏見が生まれてしまうのかわからない。もしかしたらヤマトの方が多数だからなのか、また先に近代化したからなのか、あるいは、ウチナーには、宗教的に土着が残っていることが発展していないように考えられるからなのか。それに対し、ウチナーは差別されていることを感じ、出自を隠そうと口をつぐんでいるのは何だか対等ではない。
 物事は視点によってマイナスにもプラスにも受け取れるのではないかと思う。沖縄の中にも明るい社会と内向的な社会がある。排他性とイチャリバチョーデー(出会えば兄弟)など二面性がある。ヤマトによる"コロニアル"や戦争被害者でありながら、不本意に加害者になってしまったこと。異文化に対する差別や偏見。沖縄本島の二割弱を占める基地問題と格差社会。そこから逃れようとヤマトに同化しようとする矛盾。その結果強化されるアイデンティティ。風景が壊されていく喪失感など、ウチナーにも言い分があるだろう。それでも、今は同じ日本人だ。グローバル化が進む中、内輪もめしている場合ではない。国内で文化に多様性があってもいいと思う。
 沖縄は離婚率が一位で、失業率が高く、極貧県でも今はUターンする若者が多く、ヤマトからの移住者が多いのはなぜか。人柄が良く、癒されるからではないのだろうか。また沖縄の中に本土で失われた古き良き日本の文化を本能的に懐かしく感じているのかもしれない。
 沖縄をよりよく理解するには一方的に見ようとするのではなく、ヤマトンチュが外から見る客観的な姿、ナイチャーが内で見ている主観的な姿を総合して理解しようとすることが必要となってくる。それは、それぞれの立場から見るということだ。さらに言えばヤマトンチュが実際に沖縄を訪れ、文化を肌で感じ、ウチナーンチュのアイデンティティであるウチナーンチュ意識に共感し認めること。また、ナイチャーが本土に出て外から改めてウチナーンチュ意識を再確認すること。そうやって自分の内外を比較することで、それぞれがお互いの事を浮き彫りにして理解しやすくなることがわかった。
 今後は色々な問題や矛盾を抱えるウチナーンチュの身になって、伝統的な景観や文化を大切にしつつ観光など経済活動が活発になるようお互い力を合わせて世界に向け広がっていけたらと思う。何が自分にできるか、研修旅行に参加して感じる気持ちを大切にしたいと思った。

参考文献『沖縄学 ウチナーンチュ丸裸』   仲村 清司






方言が作り出した楽園   1C30 野口 陽平

 日本の四十七都道府県を、北から順に言ってみよう。北海道、青森県、岩手県......。そして最後に来るのが、沖縄県だ。沖縄は、立派な日本国の「県」である。そして当然、そこに住む人たちは、東京に住む我々と同じ、日本人だ。しかし、実際に沖縄「県」に行ってみると、そこがまるで、沖縄「国」という別の国、異国の地のように感じるらしい。僕自身、沖縄という場所には行ったことがない。あくまでこの夏、沖縄に関する二冊の書籍を読んで知った情報である。しかし、この二冊ともが、沖縄は他の県とは一味違う、独特の文化が根付いていると、口を揃えて述べている。沖縄はもともと、琉球王国という一つの国であったため、「ウチナー」独特の文化が多少残っているということは容易に考えられる。ただ、沖縄戦による壊滅的な被害によって、その文化も少なからずダメージを受けているはずだ。そこで、沖縄戦の被害からどのように復興し、そしてどのように沖縄「国」が築かれたのか、その謎を、僕の読んだ二冊の書籍から読み解いていきたいと思う。
 まず、この謎を解明するにあたって、考えなければならないことがある。それは、なぜ沖縄が異国の地のように感じられるのか、つまり、ウチナーとヤマトには具体的にどのような差異があるのか、ということである。その答えは、僕が直前に述べたばかりの文に隠されている。「ウチナー」「ヤマト」という言葉が沖縄に存在すること、つまり、沖縄の方言が存在すること、これである。とは言っても、方言は日本全国様々な地域に存在している。沖縄に限ったことではない。大阪に行けば、大阪弁が聞こえてくる。しかし、大阪を異国の地と感じる人は、沖縄を異国の地と感じる人より、だいぶ少ないだろう。それはなぜだろうか。僕は「沖縄の方言=外国語」だからだと考える。海外旅行に行き、異国の地に来たのだと認識するときは、やはり現地の言葉を耳にしたときだと僕は考える。それと同じことが、沖縄でも感じられるのだ。それでは具体的に、沖縄の方言について考えてみたいと思う。
 まず、「テーゲー」。ヤマトゥンチュには意味のわからない言葉である。これはシンプルに言えば「大概」という意味であるが、これには、「気楽に過ごす楽天的な態度」という意味が込められているらしい。この「テーゲー」は、まさに沖縄人そのものではないだろうか。
 次に挙げるのは、「なんぎー」。漢字で書けば「難儀」だが、硬い意味では全くない。ただ単純に、「あーめんどくせー」という、ある意味自由奔放な雰囲気が漂う方言である。これも先程挙げた、「テーゲー」と同じく、沖縄人の気ままな性格がそのまま表れている特徴的な方言である。
 もう一つ挙げてみる。もう一つは、「チバリヨー」、直訳すれば「頑張って」という意味になる。普通、「頑張れ」という言葉は、気落ちしている人に使われる励ましの言葉だ。ところがこの「チバリヨー」は、気落ちしている人に使われることはない。沖縄流の励ましの言葉は、後にも出てくるが、「ナンクルナイサ」という方言である。この言葉の使い分けも、ヤマトゥンチュにとっては難しいポイントである。
 ここまで沖縄の方言をいくつか挙げてみたが、今まで沖縄へ行ったことがない人、あるいは沖縄について深く勉強したことがない人が、これらの方言をすべて理解することは、到底不可能であろう。沖縄の方言を勉強することは、英単語を覚えることと変わりないのではなかろうか。むしろ、沖縄の方言には、微妙、絶妙なニュアンスが込められているので、それも含めて理解することは、英単語を理解するよりもずっと難しいことである。つまり、この外国語のような言葉があふれた、沖縄という土地は、もはや外国と言っても過言ではないのだ。これが、沖縄が異国の地のように感じる大きな要因の一つだと思う。
 ここで、沖縄戦による影響について考えてみようと思う。太平洋戦争の末期、アメリカ軍が沖縄に上陸、大量の銃弾、砲弾が使われ、大規模な戦争となった。そして、集団自決によって、何の罪もない人まで、命を落とすこととなってしまった。死者は、二十万人に及ぶという。それにより、沖縄が甚大な被害を受けたことは言うまでもないだろう。楽園、沖縄は、完全に荒地と化してしまった。しかし現在、沖縄は見事に「南の楽園」を取り戻し、再びリゾート地として賑わっている。この七十年余りの間で、沖縄はなぜ再生できたのだろうか。こうして考えていると、ある方言がパッと頭に浮かんでくる。それは、先程少し触れた「ナンクルナイサ」という言葉だ。沖縄の方言で、「どうにかなるさぁ」という意味を持つ。なんとかなる、というストレートな意味ではなく、くよくよと自分にとらわれなければ、なんとかなってしまうものだ、という、語りかけるような優しさが込められているそうだ。僕はこの「ナンクルナイサ」の精神が、沖縄の再生を成し遂げる上で、非常に重要な意味をなしていたのではないかと考える。もしこの精神がなければ、沖縄の人々は希望をなくし、夢をなくして、沖縄は完全に光を失っていたであろう。沖縄の人たちは、大きな壁にぶち当たったときも、「ナンクル、ナンクルナイサ」と励まし合い、乗り越えてきた。このナンクル精神があったからこそ、本当になんとかなってしまった。今の沖縄は、ナンクル精神によって築かれたと言ってもおかしくないと僕は思う。そして沖縄戦でどんなに大きな被害を受けても、沖縄方言だけは失われずに残ったこと、これこそ、沖縄国を再び築けた大きな要因であると考える。
 こうして沖縄と方言の関わりについて考えていると、沖縄が異国の地のように感じる理由がもう一つ浮かんでくる。それは、ウチナーにウチナーンチュがいるから、という理由である。ここまで、沖縄の方言を何個か挙げてきたが、堅苦しい言葉は一切なく、良い意味でアバウトな言葉ばかりだということはお分かりいただけただろう。そして、この「アバウト」は、ウチナーンチュ自身にも言えることではないだろうか。なぜなら、沖縄のアバウトな方言をしゃべっているのが、ウチナーンチュだからだ。アバウトなウチナーンチュがしゃべっているから、方言もアバウトになるのだ。そのアバウト、大らかな性格は、沖縄の地に「余裕」を生み出している。我々都会に住む人間は、毎日満員電車に押し込まれ、時間に支配された環境の中で生活している。そこに余裕などない。だから沖縄に行くと、時の流れの感じ方がまるっきり変わり、そこが現実でないような錯覚を覚えるのだ。そして僕はこう考える。東京人にもこの「余裕」が必要なのではないか、と。
 最後に、今回僕が夏休みに読み、この作文の執筆の際に参考にした書籍は、多田治の『沖縄イメージを旅する』と、仲村清司の『沖縄学 ウチナーンチュ丸裸』の二冊である。





沖縄の「鏡」を割るのは    1D01 青木佑太

 「沖縄は日本を映し出す鏡として利用・消費されてきた」
 これは『沖縄イメージを旅する』の一部を要約した文だが、僕はこの言葉こそ沖縄を知るための重要な鍵だと考える。
 沖縄という場所は、かつては日本とは別の「琉球王国」として栄えたが、島津氏の侵略と廃藩置県(琉球処分)を経て、日本の版図に「沖縄」として初めて組み込まれた。その後沖縄は戦場と化し、米国の支配下に置かれた。今もその爪痕は「沖縄にある米国基地施設に関する問題」として残り続けている。こうした「沖縄の意思を無視した、本土の独断による時代移行」があり、さらに「沖縄を熱烈に求めるツーリスト達」によって作られた「南国の癒しの島・沖縄」という、「本土の人々のイメージ」がある。つまり沖縄は、本土(・・)が歩んできた道の先にあった、「米軍の支配や基地問題」などといった「現実」の多くを背負いながら、本土(・・)のツーリスト達が求める「南国リゾート」という「理想」にも応えてきたのだ。「本土の現実と理想」が存在する沖縄は、まさに「日本を映し出す鏡」と言えるだろう。
 さて、少しばかり「基地」の話が出てきたので、ここで「基地問題」についても少し触れておきたい。本当に申し訳なく、そして恥ずかしいことだが、僕はこの「基地問題」について、知識も興味もほとんど無かった。そこで、この問題について調べたところ、インターネット上の某質問投稿サイトの「なぜ今、沖縄の基地は移転に関して揉めているのか」という質問を見つけた。そしてそれに対する回答は、要約するとこのようなものだった。
「普天間基地は町中にあって危険だったので、米軍再編成に伴って辺野古に移転するよう、日米間で約束されていた。だが、民主党が選挙時に県外移設を掲げたので、県民はそれを支持した。しかし、実際に日米間で約束されたものを変更するにしても当てがない。一度県外移設と言った以上、県民も受け入れに納得できる訳がない。」これを読んだ直後、僕は大きな溜息をついてしまった。その理由は、最早言うまでもないだろう。今まで本土から押し付けられてきたものが少しでも軽くなるかと思ったら、逆に余計ややこしい方向に持っていってくれたのだ。沖縄の人々の目に、当時の永田町がどう映っていたのかは想像に難くない。
 ところで、ここまでは「沖縄と本土」というかなり広い分け方での考察を述べてきたが、ここで「沖縄人(ウチナーンチュ)と本土人(ナイチャ―)」という分け方で、話をしてみようと思う。そこで取り上げたいのが、『沖縄生活誌』(高良勉・著)の『ある写真家』という項だ。この項では、中平卓馬という写真家(本土人)と著者(沖縄人)の交流が記されている。これと『沖縄イメージを旅する』を読む限り、沖縄人は「99%の冷静な判断と1%の偏見」で本土人を見ているように思う。これはただ単に、文章をストレートに読んだときに感じただけのことなのだが、よく考えるとこれは重要なことではないだろうか。例えば、ある男が沖縄に移住してきたとする。その時点で沖縄人は恐らく、「1%の偏見」から入る。すなわち、「本土人(ナイチャ―)だ」という目で見る。しかしその後は「99%の冷静な判断」によって、その男が「良い本土人」か「悪い本土人」かの判別を行う。そしてここからが重要なのだが、もしその男が「悪い本土人」だった場合、どう対応していくのだろうか。結論から言えば、多分「何もしない」のだ。その理由が「日本人の国民性」なのか「長年かけて培われた知恵」なのか「移住者が欠かせない理由に起因するもの」なのかは、僕ごときに分かるはずもない。だが、快く思っていなくてもそれを表に出さない、という点は間違っていないと思う。

 ここで、僕は沖縄と沖縄の人々を「あるモノ」を使って表してみたい。日本では「5本の指」の各々に何かしらの意味をつけることがある。親指を立てれば「Good」や「大丈夫」など。小指を結べば「約束」。薬指は、古来薬を塗るのに使った指であることが由来...といった具合である。今回はこれを、沖縄にあてはめてみる。

 彼らは、本土人と結んだ「小指」を裏切られ、深い傷を負った。それでも彼らは互いの「薬指」を通じて助け合いながら、「日本を映し出す鏡」という押し付けられた役目を背負ってきた。そのような役目を押し付けてきた本土人に、心の中で「中指」を立てつつ、外部の人々に頼らなければならない現実があるが故、表向きにはずっと「親指」を立て続けた。

 このような、歪で根深い問題を解決する方法があるのかどうか。少なくとも今の僕には皆目見当もつかない。だが、もしその方法があるとすれば、それを教えてくれるのは他でもない、沖縄人が「こうありたい」と指し示す「人差し指」ではないだろうか。他のどの指でもない、「沖縄人と本土人の人差し指」が、いつの日か交差することを信じることしかできないのか口惜しくて仕方ないが。
 きっといつか沖縄の人々が、5本の指をしっかり握ったその拳で「鏡」を割ってくれるのではないかと信じている。





『沖縄方言と日本』  1D14  栗原一嘉

  僕が今回、沖縄の方言について書こうと思った理由。それは、『バガージマヌパナスわが島のはなし』に多く出てくる沖縄の方言の独特で面白い響きにに興味をそそられたからである。例えば、「ミーファイユー」。僕が初めてこの言葉を聞いたとしたら、韓国語か何かかと思っただろう。なんと、これは沖縄の方言で、「どうもありがとう」という意味だという。僕以外の日本人でも、これが沖縄方言だとわかり、さらに意味まで理解できるのはほんの一握りだろう。いくら方言だとしても、同じ日本語なのに、ありがとう、のような僕らが日常でよく使う言葉がこんなにも違うものになるなんてとても驚きだ。
  さて。僕のイメージでは、暖かい気候と青く透き通った海、珊瑚といった、楽園を思わせる沖縄。その沖縄の方言の歴史について書いてみたい。
  日清戦争後、近代化の波の中で、沖縄でも生活風俗を大和(本土)風に改めようとする運動があった。昭和一○年代になるとこの動きは活発になり、沖縄的な名字を大和風に改めたり、読み替えたりするようになった。
  県の懸案だった標準語の励行も、国家主義の高まりにともない次第に強まっていった。
  一九四○年代に県当局が推進した標準語励行運動は、強制や懲罰などで厳しく進められたため、「方言撲滅運動」と受け入れられた。それは、来沖した日本民芸協会の柳原悦らが、標準語励行運動は行き過ぎであると批判したことから、県内外に賛否両論の「方言論争」を巻き起こした。
  この論争でははっきりした結論は出なかったが、日本が挙国一致体制で戦争を押し進めていた時期でもあったため、標準語励行運動はむしろ強化されていった。沖縄戦がはじまると、「方言を使用する者はスパイとみなす」という日本軍は、県民の方言使用について厳しい圧力を加え、そのことによる悲惨な事件も沖縄戦中におきた。
  僕は、この方言論争の事実を知った時、少しばかり悲しみを感じた。確かに、戦時中の日本として仕方がなかったのはわかる。しかし、今を生きている僕にとっては、大切な沖縄という日本の一部の文化を見下し、軽視した当時の日本を残念に思う。もし、僕が他の言葉を使うことを強制され、自分とこれまでずっとふれてきた言葉を突然捨てろと言われて気分よくほいほい受け入れられるはずもない。今僕は沖縄の方言の軽蔑した当時の日本を批判したが、正直今までは少なからず当時の日本のように見下している自分もいた。はっきり言って、沖縄の本を読むまで、沖縄の方言のことなどこれっぽっちも考えたことがなかった。それに沖縄に限らず、方言に対しては標準語の方が上だと心の中で思っていたのだと思う。よく考えて見れば、僕と同じように考えている人も少なくないだろう。
  このような標準語との差は沖縄の人は特に感じているはずだ。僕が読んだ『バガージマヌパナス』にこんな場面があった。本土に進学、就職した元クラスメイトが帰省して主人公に会って話すシーンだ。彼女たちは、数ヶ月しか沖縄を離れていないのに、ずいぶん垢抜けた恰好をしていたという。それに、沖縄から離れない主人公に向かってわざと標準語で話し、あたかも自分たちが、上の人間だとでも言うように振舞っていた。
  この部分を読んだ時、僕はなんだか複雑な気持ちになった。せっかく沖縄という自分の地で育ってきたにも関わらず、自らそのことを避けて、身なりや言葉を表面だけでも都会と合わせようとする。
  沖縄で生まれ育ってもない僕がこんなことを言うのは無責任かもしれないが、やはりあのような美しい空や海といった自然、昔からの独特で豊かな文化をもった沖縄にもっと誇りをもって、大切にしてほしいと思う。そして地元の人たちに誇りをもってもらうだけではなく、少し前に沖縄について少しも考えたことがなかったと書いた僕だが、これからは同じ日本の一部として目を向け、もう少し関心をもって、沖縄が今、まさに直面している米軍基地の問題なども真剣に考えていかなければいけないと思う。僕は、興味がわいた沖縄の方言についても少し学んでみたいと思う。早速、驚いた沖縄方言について一つ書いてみるが、標準語の「こんにちは」にあたる言葉が男性と女性で違うらしい。男性の場合は「はいさい」で女性の場合は「はいたい」と言うとのことだ。ちょっとしたことだが、僕にとってはかなり面白く、新鮮だった。
  話を変えるが、僕は十六年間、沖縄にまだ一度も行った経験がない。だから、来年の修学旅行で沖縄に行ったときは、もちろん友達とわいわい騒いだりするのも楽しいだろうけど、それと同じくらい沖縄の文化を自分の肌で感じて、学んでみたい。沖縄の自然や、食文化、独自の風習。そして、もちろん方言にも触れ合って、そして理解し、心の何処かにとどめておきたいと思う。
  そして、方言に限ったことではないが、決して都会の文化の方が優れているなどという考えはもたずに、貴重で歴史ある大切な沖縄の文化をこれからも守り続けていき、それが多くの人に知られて長くこれけらも残っていってくれることを願っている。






沖縄の音楽  1E05 池上 響

僕は沖縄に行ったことが無い。なので沖縄を漠然としたイメージとしか捉えていなかった。海が綺麗な常夏の諸島で、シーサーがいて、シークワーサーが採れて、「~さー。」と話す人々がいる、本州の人達にとって最も身近なリゾート地という感じだ。僕はそれらには惹かれなかったが、沖縄音楽にだけは興味を持った。そして今回沖縄に関する本を読み、初めて少し深くその歩んできた歴史やそこから成り立った文化を知ることができた。その上で沖縄音楽を考えてみようと思う。
僕が沖縄音楽を初めて聴いたのはTHE BOOMの「島唄」だ。僕はその曲の明るくて優しいけれどどこか寂しい曲調が印象に残っている。そしてそこから少し別の沖縄民謡を聴いてみたりした。沖縄音楽の独特な感じ、そこでその歌を歌っている人や三線を弾く人、それに合わせて踊る人、夜に薪で灯りを灯しそれを囲んで皆で歌を楽しむ、そんな情景や様子が浮かんできた。沖縄音楽は聴いていると行ったことがないのにまるでその場にいるかのような、それか物語の一節を読んでいるかのように沖縄の様子が頭の中に映される。それは音楽の力なのだが、沖縄音楽は強く情景を浮かばせると僕は思う。それはその個性によるものだと考えた。沖縄音楽は西洋の一般的な音階「ハニホヘトイロハ」(和語)と比べると二音少ない「ハホヘトロハ」という五音階によってできている。この音階が沖縄音楽の特異な雰囲気を作り出している。実際にこの音階を奏でてみるとピンとくる人も多いと思う、それくらいこのスケールの役割は大きい。そしてそのベースに加わるのが三線だ。三線は中国に起源のある楽器である。その音色は「ベンベケ」と口ずさまれるような音だが、力強く激しい音をだすこともあれば、静かに奏でられる時もある。この楽器は沖縄音楽でリズムのビートを刻む役割を担っているが、それ故に落ち着いたテンポを作り出すと、聴き手も穏やかに安らぐのが分かる。音階と三線、この二つが沖縄音楽最大の音楽的特徴だ。しかしそのスケールと音階という二点なら他の地域の民謡もそうだ。だが、西洋や東洋の他の地域のどの民謡とも違う個性が沖縄音楽にはあると思う。それは形には無いもので気持ちのように目で見えないもの、そしてシマンチュも無意識に、でも確実に感じているものだと思う。その「もの」ははっきりとは僕も分からないが、それがあるから、沖縄音楽によく似た音楽は無いのだと思った。
今回沖縄の本を読んで初めて知る沖縄のことばかりで新鮮な気持ちになった。そしてもっと沖縄の音楽文化を知りたいと思った。沖縄音楽は雰囲気と旋律で人の心に直接語りかけてくる。そこには、島人の人々の思いが込められている。この音楽の形をこれからも守り受け継いで欲しいと思う。






沖縄の二側面と観光  1E23 佐々木 一洋


 僕は『沖縄イメージを旅する』と『バガージマヌパナス』を読んだ。その結果、沖縄への修学旅行に対しての考え方が変わった。沖縄の二つの側面について知って、よくある沖縄の観光とは違った見方をしてみたいと思ったのだ。
 僕の考え方を変える事になった二つの側面の一つは『沖縄イメージを旅する』で知った政治的側面だ。アメリカ軍との問題を僕達はよくテレビで見る。しかし現地に行った時、観光客たちは身に行こうとしない。なぜならその地域が観光地に含まれていないからだ。
 また、戦争について知るために、観光客はひめゆりの塔へ行く。しかし他の慰霊塔に行く人は少ない。なぜなら観光ルートに含まれないからだ。本を読み、それは日本の被害者的イメージを誘導するという政治的狙いの結果だと知った。
 これらの事から、沖縄の政治的側面は、観光によって隠されていると僕は思った。観光地を巡り、あー楽しかった、で終えては意味がないという事をこの側面を知って考えさせられた。
 もう一つの側面は、自然や文化である。観光客の熱意はこちらに向いている。しかし、南国のイメージを作る木々、砂浜は人の手によるものがほとんどだ。元々そこにあった自然を壊して作られた形だけのものだ。観光客は上辺だけの自然を感じていくのだ。僕はそんなのは嫌だ。本当の自然を見たい。
 文化もまた、観光用のスポットとなることで見えなくなってしまう。『バガージマヌパナス』から沖縄の文化が持つイメージが想像できる。神や霊がフレンドリーであることは、その島の緩やかさのようなものを示していると思う。オージャーガンマーと綾乃には、昼と夜という感覚しかない。沖縄の文化を感じるなら何時に何処へという予定など無い方がいいだろう。観光客はスケジュールを決めて行動する。海辺でただ遊んで、その後は他の所へ行ってしまう。これではゆったりとした沖縄の海は楽しめないし、その先へ思いを馳せる事もないだろう。そういう観光では沖縄の空気が分からない、と僕はこの本を読んで考えたのだ。
 これらの二つの側面は、どちらも普通の観光ルートを見て回ったのでは伝わらない。僕は、沖縄を海がきれいな南国のような所としか思っていなかったが、今は考えを変えた。ただ表面上の作られた自然を見ても意味がない。『バガージマヌパナス』の島に見られる、ゆったりとした雰囲気と、戦争を経験したという歴史、リゾートではない本当の沖縄を楽しむべきなのだと思う。それには自分から探求心を持って知ろうとする心が必要だ。本から知れる事は限られている。実際に沖縄に行った時に何を見るのか。偽物ではなく本物の沖縄を楽しんできたいと、僕は考えさせられた。






日本と沖縄    1E38 山下 諒

 僕は「沖縄のイメージを旅する」と「バガージマヌパナス~わが島の話し」を読んだ。
「沖縄のイメージを旅する」は沖縄での研究経験がある多田氏の説明文。「バガージマヌパナス」は、沖縄でユタ(巫女)になるよう命ぜられた少女、綾乃を主人公とする物語だ。この二つの作品を読み、僕はどちらにも見られる共通の事がらについて考えてみた。沖縄と、それ以外の日本の関係性についてである。一言では説明しきれず、大雑把なものになってしまったので、詳しく説明する。
 僕はこれらの本を読むまでは沖縄のイメージは美しい観光地である、というくらいだった。しかし、本を読み進めるにつれ、日本と沖縄には簡単には越えられない壁があるのではないかと思い至った。
 沖縄が観光地として活躍するのは戦後しばらくしてからのことだ。美しい自然を持つ沖縄はしだいに魅力的な観光地として注目を集める。ここで日本の旅行協会は方言の使用など観光地としての受けを狙った要求をつきつける。この会議の際、日本側の失言から方言議論が勃発する。何だろう、この違う国同士のような争いだ。しかし、これは決して彼らが互いに忌み嫌うが故の争いではない。沖縄人が自分達に誇りを持つが故の争いだ。この「誇り」は綾乃の中にも読み取れる。彼女は大和やその人々をバカにするような発言を度々している。彼女の場合は単に自分達の考えを押し付けてくる大和が嫌い、というのもあるだろう。しかし、何より大きいのは彼女が沖縄に誇りを持っていることだ。ゆっくりと流れる時間、お金のかからない生活。そういったものが彼女は大好きなのだ。
 人だけではなく、文化や風習はどうだろうか。例えば先ほども述べた方言のような。物語を読んでいても彼らの使う言葉は同じ国の言葉とは思えないほど変わっている。
「ワジワジーッ」「アガー」。こういった言葉は東京で暮らす人々にとっては新鮮である。観光として訪れたら外国に来たような錯覚を覚えるかもしれない。また、風邪を引いたら猫を木につるす、子供のお仕置きとして鼻に詰めた紙を燃やすなど、こちらでは考えられない習慣も存在する。こういった文化はどう見るべきなのか。
 多田氏は、ツーリストは客観的な視点でその地を見ることで、影響を与えることができると述べている。ならばこういった習慣は?ツーリストなどといっても所詮はよそ者だ。そんな人々が自分達の勝手な視点から物事を判断し、伝統ある習慣にケチをつけていいのだろうか。進んで大和に溶け込もうとする人間を拒む理由はない。しかし、自分達の伝統を守りたい人間を無理に巻き込んではならない。それは本当の意味での「壁を乗り越える」ことにはならない。
 最後に、沖縄も日本の一部である。同じ国に属している以上、いつかは壁を乗り越えなくてはならない。そのためにはわれわれは互いを理解し合う必要かある。乗り越えることは変わることでなくていい。互いに自分達の位置を認め、その場所を愛しいと思えるようになること。それができたとき、われわれは壁を乗り越え、本当の日本が完成するのだ。            








全日本学生美術展

高等科3B27 西永和輝

今年も全日本学生美術展佳作を受賞できましたことを嬉しく思います。高等科美術部での出展は2年目となります。この美術展は幼稚園から大学生まで、応募総数は約7,000点にものぼる全国規模の公募展で、日本洋画界画家や美術大学学長などの審査員による審査を経た、佳作以上の作品が上野の都美術館で一週間展示されます。今年は都美術館工事の関係で池袋芸術劇場での展示となり、展示スペースの問題から例年より厳しい審査となりました。

題名:海の静物  3B27  西永 和輝
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 今年度は静物画1点に絞り、約1年をかけて仕上げました。帆船に関連したモチーフを収集、配置し、光の具合を調整にも拘りました。長い時間をかけて描いていくことで、製作中に気がついていく前進や後退、思考の変化がありました。







IMG_0267.jpg題名:Sunset of Okinawa  3E34  藤澤 順太

 題名のとおり、沖縄の夕焼けと、沖縄の土産品美ら玉風鈴を描きました。空の自然な色合いを表現するのが難しく、また海に映る夕陽にも特に時間をかけ、納得のいく作品になったと思います。沖縄のあたたかさを感じていただけたら嬉しいです。

題名:百鬼夜行の家  3C28  原 憲和
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 家をイメージした空間の中に、日本画に描かれる様々な妖怪を描きました。妖怪のモデルには日本画の百鬼夜行絵図を使用し、日本画の画風を油絵で表現しました。一つ目入道、傘化け、一反木綿‥等の有名な妖怪を中心に、背景となる色のイメージに合わせた妖怪をそれぞれ白または黒の単色で描きました。所々に描いた龍や蛇のような妖怪は八岐大蛇で、八つの首を持つ僕の好きな妖怪です。





鳳櫻祭美術部作品②

光のモニュメントlight.jpg

集めた廃材を組み合わせて作ったオブジェです。中央に電球を付け、電源を入れることで光るようにしました。電球の周りには細長い鉄棒や網を被せ、また上の部分にはレンズを付けて、横から見ると光の明暗がついて見る人を飽きさせず、また上を見上げるとレンズで光が天井を照らすように工夫しました。鳳櫻祭では部屋全体を暗くし、この作品の特徴を最大限に生かせるようにしました。

鳳櫻祭美術部作品①

闇のモニュメント darkness.jpg

教会にあるガーゴイル像をモデルにしたオブジェです。木の棒を芯にし、粘土を付けて形作り、灰色の塗料を塗って作り上げました。腹部にあるものは鉄球を木工用ボンドで接着したものです。鉄球がボンドによって錆び、さらに錆びた色がボンドにも移ったことで、独特な怪しい雰囲気を表現することに成功しました。下には細い金属で作った手や木のブロックを付け、見る人に強い印象を与えるように工夫しました。

鳳櫻祭書道展

この作品にかけた思い

2010_10_31 (20).jpg             2B15 島田喬平

「疾風怒涛」とは速い風と荒れ狂う波を意味し、「時代や物事が激しく変化すること」のたとえだそうです。

文化祭前に練習で何枚も何枚もこの字を書きましたが、常にこの意味を忘れることはありませんでした。勢い、線の太さ、バランス、それらが自分の納得できるようになるまで書いて、長いときは2時間も書き続けていました。

そうして出来上がった作品を今見ると「もう少し上手く書けたんじゃないかなぁ」なんて思いも正直ありますが、初めてこんな大きな作品を書くことができてうれしく思います。

 

最後に、指導してくださった井澤先生、本当にありがとうございました。また来年もおねがいします!




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