主なメニュー



エッセイ

1年主管 福島東洋一|「一年主管だより」

 4月,今年もまた,桜の花の芽 吹きと共に,200名の新高等科 生を迎えた.3月,卒業で巣立っ た者たち,そして4月,まだ幼さ の残る新入生...,それは,私たち 教員にとって,撮り直し可能な映 画フィルムのごときものではある が,新入生にとっては,そうでは ない.これから迎える高等科での 一切が,最初で,そして最後とな る.一度きりである.にもかかわ らず,ふとこの瞬間が再び巡って くるような,そして永遠に,明日 という日は訪れてくるかのような 錯覚に陥っている自分がいる.お そらく,生徒もいだくであろう, そうした思いは,若さ故に,私以 上であるに違いない.
 「光陰矢の如し」,「時,再び来 たらず」とは,けだし名言である. 三年という月日の,短さは,卒業 時に実感となって,突如,強烈に 湧き上がってくるものである.そ うしたことを念頭に置き,以下の ことに留意して,これからの高等 科生活をすごしていくように期待 している.
・自分の傾向性を客観的に把握し て,将来の方向をなるべく早く確 定する.そして,そのための学業 成績をどこに置くのかも決定しな ければならない.
・不慮の事故,病気には十分に注 意しつつ,学校への出席常なるを 心がける.
・自分をとりまく人たち―家族, 友達,教師など―との良好な関係 維持を意識しつつ,日々過ごす. 高等科では,「気力」,「体力」, そしていい意味での「要領の良さ」 が必要と思われる.「梁山泊」の ごとく,いろいろなタイプの教師 がいるので,自分と波長のあう教 師を見つけ,薫陶を受け,自分の これからの人生に活用されるよう 希望している.

2年主管 森本貴志|「お願い」

 附属戦も終わり一学期も最後の 六月となると,祝日もないし,運 動部では大会のところも多く,皆 かなりお疲れ気味で,この高等科 便りを読む頃は,やっと夏休み! と生徒も教師も正直ほっとしてい るところではないだろうか.
考えてみると二年生はこれで高 等科生活の折り返し地点にさしか かったことになる.部活でもだん だんと世代交代し,中心を担うよ うになる時期だ.練習練習で,や っと夏休みなんて暢気な場合じゃ ない,という者もいるだろうし, 中にはこの節目の時期に自分の現 状や将来を見据えて,今何をなす べきか,部活との関わりも込めて 悩んだり,決断を迫られている者 もいるだろう.
 こちらがとやかく言う筋合いの ものではないが,ただ,自分の本 当の気持ちをきちんと見つめてほしいと心から願っている.ごく当 然なことと思うかもしれない.し かし,君達が親や教師の目を実は かなり気にしている(くれてい る?)ことは意外でも何でもない し,まして仲間づきあいと言った ら,それが行動の大半を規定して いるという人も決して少なくない はずだ.
 自分勝手のすすめをしているの でも,かっこをつけるなと言って いる訳でもない.ただ,自分の本 当のところもはっきりせず,周囲 の気持ちを確かめる訳でもなく, 想像上の他者の眼に対してかっこ つけてみたところで甲斐が無いと 思うのだ.自分自身を見つめるこ と,そうして得られた考えを周囲 にわかってもらうために努力する こと,それに対する他人の考えに 耳を傾け,再考し,改めて相手に 自分を理解してもらうための工夫 をすること,そうした作業は面倒 かもしれないが,やはりどうして も欠くことはできないはずだ.
 それぞれが自分らしさを充分に 発揮して,後半の高等科生活を満 喫されることを祈っている.

3年主管 武市憲幸|「返信」

 先日の朝,発車間際の電車に飛 び乗ったところ突然「武市先生!」 と呼びかけられた.教師にとって 日頃衆人環視の中で「先生」と呼 ばれることほどきまりの悪いもの はなく,何事かと思って声の主を 振り返ってみると高等科の卒業生 のF君であった.現在三一歳で出 版社に勤務しているという.高校 卒業後顔を合わす機会もなく,失 礼ながら名前も咄嗟に出て来ず, 名刺を渡されてやっと思い出す始 末であった.
 彼は,仕事の話が一段落したところで,授業でとりあげた漱石の 小説『こころ』について触れ,こ の小説が気にかかり,その後も何 度か読み返した旨語ってくれた. 時間にすればわずか十分程度の会 話で,会社に向かう彼を残して先 に電車を降りたが,その時,自分 が日々教室で行っていることのさ さやかな返信を受け取ったような 気がした.もとよりその時の授業 で何を語ったか詳しく覚えている わけではないし,たまたまF君が 出版社に勤務しているという事情 もあったのかもしれない.しかし それにしても,自分がやっている こととはこういうことなんだと妙 に納得してしまった.
 成果主義,能力主義が喧伝され, 目に見える結果が求められる昨今 の風潮の中で,「何を悠長なこと を言ってるんだ.」という声が聞 こえてくるその一方で,「目に見 える結果」なるもののあやうさと それのみに振り回されることの愚 かしさも忘れてはならないのだと 思う.ほんの偶然の機会にもたら されたささやかな返信.もちろん それをいつもあてにしているわけ では,けっしてない.そもそも相 手に届くのかどうかも覚束ない便 りを,いつか届くことがあるのだ ということを信じて送り続けるの がわれわれ教員なのではなかろう か.

ページの先頭へ