2月4日、1年生を対象に冒険家の八幡暁氏による特別講義が行われました。沖縄研修旅行事前学習の一環として「黒潮」を切り口に沖縄を考えるというテーマでしたが、講義内容は八幡氏の体験から紡ぎ出された現代社会の見方や、これからの生き方にまで及び、スケールの大きなものとなりました。学習院高校の講演を終えて生徒教員とも深い感銘を受けました。
赤線は八幡氏がカヤックで漕覇したコース
講義後に八幡氏に直接質問をぶつける生徒たち
講義後に八幡氏よりメッセージをいただきました。
学習院高校の講演を終えて
講演の黒潮資料を作っている時、ふと自分が高校生だった頃を思い出していました。修学旅行。京都へ行くため、歴史を学ぶ事前授業。何も学んでないことを「作文させられた」と、感じていたことだけが記憶に残っています。勉強に身が入らなかったこと。やっていることに意味がないのではないか。未来への漠然とした不安。学校生活で本気を出せたのは、部活動だけでした。それは何かを解決するものではなく、思い切り自分の体や仲間を信じることが楽しい、そういったものでした。今の高校生は、どういった不安の中にいるのだろうか。黒潮のことを切っ掛けに、もっと本質的な話をしてみようと思うようになっていました。
この時代、黒潮の知識はいくらでも調べられます。黒潮は、何の切っ掛けか。修学旅行を充実させるためのものではない。修学旅行もまた何かの手段です。高校時代、そうしたことを考えていなかったので、これを考えてみよう。講演の軸は決まりました。さらに踏み込んでみたい。優秀な学者、研究者も沢山いる中で、わたしが学生の前で話をする意味はなんだろうか。勉強せず、就職せず、38歳まで生きてきた人の姿は、彼らが思い描く大人としては異質に映るはずです。このことの意味を伝えてみようと思ったのです。
自分を取り巻くあらゆるものに意味づけがされている現代社会。客観的に数値化されるものが評価を得る時代です。人知を超えた存在や八百万の神に揺すぶられることのない暮らしは、当然、画一化していきます。そこに閉じ込められ、優劣をつけられれば息苦しいに決まっています。本来、人の可能性はどこにあるかわかりません。それぞれの価値は、まだ誰も見出せていないところにあるのかもしれないです。学びとは何か。評価に値することを学ぶだけではない。未知を知り、また新たな未知と出会うことこそ、人が何万年も続けてきた学びの本質です。生活から遠い存在である黒潮とは、学生にとって未知ものではないか。そしてわたしは「意味がないとされること」を実践し続けてきた大人であり、人生を楽しみ、周りには愉快な仲間がいること、それを示せれば何か感じてもらえるのではないかと当日を迎えたのです。
講演は拙いものだったと思いますが、何人かの生徒は質問に来てくれました。その夜、フェイスブックへの友達申請があり、その中には、嬉しいメッセージもあったのです。「今まで聞いた話で一番面白かったです」文字どおり単純に面白かった、ということでは無い気がします。道を外れることは、自分達の知っている世界観を、ちょっと飛び出せたことでもあります。広い視野をもってみれば、あらゆることは誰かに優劣をつけられるものではありません。そんな言葉を投げかける大人が、その学生の周りにはいなかったのではないかと思えました。
「君達は、生まれた瞬間から、存在を肯定されている」
その事実は、高校時代のわたしに投げかけてあげたい言葉です。今回の講演で、何人かの生徒にそう感じ、生きる糧にしてもらえたならば、それは成功だったかと思います。
今回、高校生に話をする機会を作って頂きまして、ありがとうございました。わたしにとっても、とても有意義な時間になりました。何かの形で、またお会い出来るのを楽しみにしています。