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沖縄について|1D10 齋藤 広樹

 僕が沖縄に行ったのは、七年前の夏だった。読谷にある新しいホテルに三泊してゆっくりし、那覇に一泊して平和記念公園の方まで行く予定だったが、台風の直撃に会い、結局同じホテルに泊まり、最後に那覇市内を観光して帰ってきた。海やプールで泳いだり、グラスボートに乗ったり、空や海も美しく楽しい旅行だった思い出がある。僕が今まで沖縄に持っているイメージはそんなものだった。ゴーヤチャンプル、ちんすうこうなどの食物や、「おばあ」などのいる南の島は、ハワイやグアムとあまり変わらないものだった。
 しかし、今回、「戦争と沖縄」、「沖縄のいまガイドブック」、「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕-国内が戦場になったとき」の三冊を読んで、そのイメージが上辺だけのものだったということがわかった。
 まず、沖縄の歴史を振り返ると、ずっと中国と日本の間にあって難しい立場だったこと、長い間薩摩藩に支配されていたことなどは、全く知らないことだった。そもそも、沖縄県というのは僕には当然だったのに、昭和四十七年までは、アメリカに支配されたままで、その時やっと日本に返還されたとは全く知らなかったので驚いた。「戦争と沖縄」の中に<沖縄の人びとは、まさに薩摩にならされ、明治政府以後の圧迫に、さらに日本軍にならされ、いまアメリカ軍の圧迫にならされていたのです>とあるが、沖縄の人達が忍耐強い気がするのは、そのせいもあるのかもしれない。
 沖縄には(ウチナーグチ)と呼ばれる独特の方言があるが、明治時代には喋ってはいけない、共通語(大和口)を使うように統制されたこともあったという。自分の生まれ育った土地の言葉や文化を否定されるなんて、何と悲しいことだろう。そして、沖縄の人達はもっとつらい目にあう。第二次世界大戦の時唯一、国内が戦場になって多くの人達が死んだのだ。その様子は「沖縄の旅・アブチラガマの轟の壕」を読むとわかる。この本は衝撃的な内容で、僕は今まで戦争を軽く見ていたのではないかとさえ思った。原爆も悲劇だが、この地上戦でのむごたらしさ、残酷さは種類が違うがそれ以上かもしれない。
 戦時中、ガマと呼ばれる自然洞窟は避難壕として使用されていた。その中のアブチラガマで起こった悲劇が生き残った人たちによって書かれている。ひめゆり学徒隊の女学生はガマの中で傷病兵の看護を任されるが、次々と皆死んでゆく。手足をノコギリで切断される人、傷口からウジが湧く人、生きたまま死体置き場に置き去りにされる人、頭の狂った人など地獄のような様子は読むのもつらいが、この地上戦にはもっと恐ろしいことがあった。それは日本兵の残酷な仕打ちだ。泣く子を平然と殺したり、敵に投降しようとする人を処刑したり、集団自決を強要する。それが現地住民の犠牲が大きくなった理由だという。日本人同士が殺しあうなんて恐ろしいと思う。
 今まで僕にとっては遠い戦争だったが、沖縄に行ったら是非ガマに行きたいし、平和記念資料館に行って、少しでもその戦争を身近に感じ、二度と戦争を起こしてはならないという当たり前のことを考え直したいと思う。と同時に色々な歴史を経てきた沖縄の文化にもふれてみたいと思う。今、沖縄はブームになっているし、「沖縄のいまガイドブック」を読むと、音楽やエイサーや食物など独自の文化がわかる。沖縄タイムとか、ゆんたくとか、沖縄にはのんびりした雰囲気があり、いやされるという人が多いが、今回本を読んだりして、色々な苦労をした歴史があったから、人を受け入れる優しさがあるのかもしれないという気もした。来年、沖縄に行く時には、前と違った視点で見られると思う。

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