学習院中・高等科長 武市憲幸
卒業生のみなさん、そして父母保証人の皆様、本日はご卒業おめでとうございます。
本来であれば、ここに在校生の諸君も参列して式を挙行するはずでしたが、ご承知の通り、新型コロナウイルスの感染はいまだに収束せず、このように簡易化した形で行わざるを得ませんでした。
思い返せば、昨年の2月頃から始まったこの騒動は、学校生活にも甚大な影響を及ぼしました。4月の新学期になっても登校できなかったことはもちろん、その後のクラブ活動や行事の多くが、中止や延期に追い込まれ、高等科生活最後の年がこのような形になってしまったことが残念でなりません。保護者の方々にもさまざまなご不便をおかけしたことと思います。ただし、この100年に一度ともいわれる厳しい状況の中で、生徒諸君の安全を図るためのやむを得ない措置であったことをご理解いただきたいと思います。
さて、卒業生諸君は、高等科での過程を終えて、これからより専門的な過程に進んでいくことになります。とは言っても、それもとりあえずの通過点に過ぎないのかもしれません。自分が本当に自分を活かせる場所を見つけるためには、社会に出てからも試行錯誤を続けることになるのだと思います。その試行錯誤の果てに、今まで考えてもみなかった場所にたどり着いているかもしれません。また、一つの道をたどって行くにせよ、時には、壁にぶつかり立ち往生してしまうこともあるでしょう。
私たちはそれぞれの個性を大切にして日々君たちと接して来ました。そして将来その個性を土台にして自分自身の充実した人生を切り拓いていけるようになることが願いです。ですから、自分自身が活かせる場所であるならば、つまずいたり、転んだりしながらでも、そしてそれが傍から見てどんなに無様に見えようともその場所をめざして歩み続けて下さい。
ここで、高等科を巣立っていく君たちに小説家の夏目漱石が、若き芥川龍之介に宛てた手紙の一節を紹介したいと思います。大正5年に書かれたものですので、漱石は当時50歳、芥川は作家としてスタートを切ったばかりの26歳でした。ちなみに漱石はこの手紙を出した数か月後に亡くなります。つまり晩年の彼が若い世代に残した最後のメッセージと言ってもいいでしょう。
「牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬にはなりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。 (中略)あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手をこしらえてそれを押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら人間と申します。人間を押すのです。」
以上です。
突然牛や馬の話が出てきて驚いたかもしれません。鈍重な牛と俊敏な馬と。若い頃はともすれば人の眼を引くような行為に憧れるものです。漱石は、ここで「火花」という言葉を使って、そのような行為に、ある「危うさ」を感じ取っています。自分が何かの壁にぶつかった時も、その問題から目を逸らしたり、壁を、あたかも障害物競走の馬のように一気に飛び越えようとする誘惑にかられるものです。しかし、壁が高く、容易に打ち壊すことができないものであればあるほど、われわれは、鈍重な牛のように愚直にその壁を押し続けるしかないのではないか。むろん口で言うほど易しいことではありません。ただ、私は若い頃この漱石の言葉に出会って、「根気よく、超然として何かを押し続ける牛」のイメージに励まされた覚えがあります。皆さんもこれから何か困難なことに打ちあたり、不安に駆られた時、この「牛」のことを思い出してみて下さい。
父母保証人の皆様、本日の卒業式には学校法人学習院を代表して、耀院長、平野専務理事にご列席いただいております。またご来賓として大木父母会副会長にご列席いただいております。私たち学習院高等科の教職員一同、心からご子息のご卒業をお祝い申し上げます。
皆様におかれましては、3年前この記念会館での入学式のことはまだ記憶に新しいのではないでしょうか。彼らはこの3年間さまざまなことを経験して、今日卒業の日を迎えました。時には、はたから見ていてひやひやされたこともあったかもしれません。この目白のキャンパスで過ごした日々が、より良き成長の手助けとなったとしたならば、われわれにとってこれほど喜ばしいことはありません。彼らはこれから自らの足で自分の道を歩いて行くことになります。まだまだ親としての心配は続くでしょう。また、われわれも卒業したから事足れり、とは考えておりません。むしろ、高等科の教育はこれから始まるのだと言っても過言ではないでしょう。10年後、20年後、それが一つの実を結んでくれれば、と願っています。
3年間、学校運営のさまざま局面にご協力いただいたことを心より御礼申し上げます。
最後に、卒業生の皆さん、この3年間で築き上げた友人との絆を大切にして下さい。それは君たちの生涯を通じての大きな財産となるはずです。みなさんにとってこの高等科が、いつまでも「特別な場所」であり続けることを切に願っています。
以上をもちまして卒業式の告辞といたします。