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卒業生からのメッセージ

Be Different の精神

福原和人
〈略 歴〉
2003年3月 高等科卒業
2003年4月 学習院大学理学部化学科入学
2007年4月 学習院大学大学院自然科学研究科(化学専攻)進学
2009年4月 株式会社資生堂入社(スキンケア研究開発センター)

こんにちは。私は2003年に学習院高等科を卒業し、学習院の理学部化学科へ進学しました。その後さらに博士前期課程に進学して研究者としての基礎を築くため研究・勉強の毎日を送っています。この4月から会社へ勤務することが決まり、現在は社会人としてのスタートを待ちわびています。長い間学習院にお世話になり(なんと18年間!)、今改めて学習院の良さを顧みると本当に良い学校だったな~と思っています。

高校に入ると色々なことを考え始めるようになります。中でも、「将来自分は何をしたいのか?」という悩みは(少数の人を除いて)誰しもが抱える問題ではないでしょうか。そこでほんの一例ではありますが、ここにも同様の悩みを過去に抱えた先輩がいたことを理解していただき、私自身が考えたことを少し綴ってみようと思います。

高等科時代、実は私、将来のことに関してはあまり考えていませんでした。部活動(バスケットボール部)に夢中で、寝ても覚めてもそのことばかり考えて...1年次に理系コースを選んだのも、そのほうが選択肢が広がるだろうという損得勘定だったと記憶しています。で、気づいたら3年生になり進路を決めなくてはいけなくなってしまったわけです。そりゃもう、最後の最後まで悩みました。

ただ、昔から絶対に曲げたくない信念(というと格好良いけど実際は単なる「こだわり」)が私にはあったのです。それは、

「他の人と違うコトがしたい。誰も知らないことを知りたい。」

ということ。例えば大好きだったバスケットボールを例に挙げれば、バスケットシューズは誰とも被らないものをいつも選んでいたし、NBAの情報だって誰よりも詳しい自信がありました。(変わり者と言われてしまえばそれまでですが...。)それだけです。あとは、漠然としたサイエンスへの興味があるという理由で、他に誰も高等科から志願者がいなかった学習院大学理学部化学科へ進学しました。(注:他大受験をしなかった理由も色々とあるのですが、ここでは割愛します。)

さて、結果としてそこで私は「目覚め」ました。学ぶことの楽しさ、自分で物事を進めていく喜びを覚えたのです。辛い勉強だってもちろんありましたが、大学の勉強はただ試験で良い点を取るためでなく、自分の研究を進めるためにするという部分も大きいので全く苦痛ではありませんでした。大学入学当初の期待より何倍も良い環境で、思う存分サイエンスを学び、特に研究室でオリジナルの研究を始めた時にはすっかり科学研究の虜になってしまいました。でも、気持ちとしては、高等科時代にバスケット雑誌を片手に好きな選手について得意気に語っていた時と何ら変わりがありません。違うのはそれが「世の中に貢献した成果として認められる」ということです。理系学部に入れば学生の時から実績を上げることができ、自分の結果が世界中の研究者と共有できるのです。好きなことをやって、結果を大人から認めてもらえる。それって最高じゃないですか? 私は4年生から大学院を通じて3回の国内学会と1回の国際学会の参加することができました。国際学会はドイツのケルン大学で行われたのですが、自分が頑張って行った研究を海外の人が評価してくれるという感動は、言葉にならないほど嬉しかったです。
高等科を卒業してまだ6年。その期間で自分なりの成果を上げられたことはとても自信になりました。社会に出ればさらに数十年の時間がある訳で、その間どれだけ自分自身が成長できるか、今から楽しみで仕方ありません。先述のこだわりである「Be Differentの精神」、それだけでも強く思っていれば道は開けるのかもしれません。将来、また誰にも成しえなかったような成果をあげられるよう、今後も一生懸命に自分の可能性を模索していきたいと思います。

そして、なんだかんだやっぱり私の原点は学習院中・高等科なのだと思います。中・高等科は好きなことを存分にさせてもらえる環境、幅広い教養を身につけさせてくれるカリキュラム、大学の専攻を多くの選択肢から選べるアドバンテージなど、良いところを挙げたら枚挙に暇がありません。何より、当時は意識していなかったけど、先生方が何かを学ぶことに対してどんどん背中を押してくれたから今の自分があるのかなぁと最近思います。早く自分自身社会で活躍して、その恩返しがしたいと今考えています。
もしこれを読んで下さった方が何をしたいか迷っているのなら、理系学部に(願わくは学習院大理学部に)進学することを選択肢のひとつとして考えてみてはいかがでしょうか。きっと楽しい世界が待っています。あ、数学の成績とかは全然関係ありませんから、念のため。

それでは、皆さまと一緒に社会で活躍できる日を楽しみにしています。

高等科時代の出会い・つながり

朝倉 啓
〈略 歴〉
2002年3月学習院高等科卒業
現在,学習院大学経済学部経営学科在学中
2006年度より早稲田大学大学院商学研究科に進学

いまでも忘れられない高等科時代の大きな思い出が,私には3つあります.(そのほかにスキー教室や院内大会(クラス対抗スポーツ大会)のこと,イングリッシュ・セミナーや週7時間の数学の講義ほか,思い浮かぶだけでもいくつもの思い出があります).

■ シーケンスと電顕

高等科2年の夏休みに生命分子化学研究所でDNAシーケンスや電子顕微鏡などをやらせていただく機会がありました.朝早くに電車に乗り込んでは真夜中に自宅に帰宅するという生活を,志願して月曜から日曜まで過ごしました.走ることとは違う体力が多分に要求されましたが,若さと勢いで当時は乗り切りました.技術不足でシーケンスで使うゲルをうまく流し込めなかったり,最終日などは疲労困憊でミスが続発しました.そのたびに「ミスはよくあることだから」とあたたかく指導してい ただいた先輩とはいまでもお付き合いさせていただいております.

皆さんがこれまでにいちばん頑張ったことは何ですか?

■ 附属戦

高等科2年の冬から半年間,筑波大学附属高等学校との総合定期戦(附属戦)における男子部の会計を担当しました.その直前の秋に私は院内大会で総合優 勝に貢献しました.そのときのやる気が認められ,知人を通じて仕事を頼まれました.人から信頼されて仕事を任されたことは当時すごく嬉しかったです.

会計の仕事は大きく予算と決算のみでした.つまり準備のいちばんはじめといちばん 終わりだけが本来の仕事として忙しかったわけです.半年ある準備期間のほとんど は,会計の仕事をやるというより,全体をまとめて運営していく仕事を多くこなしま した.

3つの学校が知恵を出し合い擦り合わせ,1つのことを成し遂げようとする,皆がひと つのことに向かって進んでいくことを,私は素晴らしいと思いました.日々新しいこ とに感動しながら仕事をしました.

努力の甲斐もあり,21世紀最初に行われた附属戦は無事に終えることが出来ました. 帰りの池袋駅のホームで感動のあまり一人泣きしてしまいました.

皆さんがこれまでにいちばん感動したことは何ですか?

■ 陸上競技

中等科からやっていた陸上競技を高等科でも続けました.高等科に進学したときは他の部もいくつか見学する機会もありましたが,自らをいちばん表現することが出来る陸上競技を続けることにしました.高等科時代は100mを11秒24で走り,リレーでは学 習院記録を幾度か塗り替えました.

■ その後の自分

大学では附属戦のときに経験した組織と戦略の関係について勉強したいと思い,経済 学部経営学科に進学しました.附属戦のときに使った6冊のファイルは,かさば るものの,いまも大事にしまってあります.

また課外活動では陸上競技を大学でも続け,100mでは10秒7で旧制高校か ら続く不滅の学習院記録に並び,リレーでは学習院記録を毎年更新しました.

自分を日々追い込む練習は厳しいものですが,その成果が記録として表れるとき,それまでの努力は報われます.大会新記録を出したときの自分と会場全体との一体感は,いまでも忘れることが出来ません.走ったあとに出てきてくれた恩師の顔を見 て,これまた思わず泣き崩れてしまいました.

皆さんのこれまででいちばん嬉しかったことは何ですか?

■ これからの自分

いまは競技を終え,次の新しいことに挑戦しようとたくらんでいます.これからは社会とつながって生きていかなくてはなりません.そのとき,これまで行ってきたどのことよりも自分を表現出来ることに出会えたら,それは最高に幸せだと思います.世界のなかで自分にしか出来ないことを手に入れるべく,いま毎日を過ごしています.なにより,これまでにお世話になった多くの人々とのつながりを大切に,これからも 生きていきたいと思っております.

皆さんの将来の夢は何ですか?

学習院高等科とは?

田中 力
以下の文章は,新宿界隈の居酒屋で私(T)と私の友人(A)との間で交わされた会話をまとめたものです.学習院高等科を知るうえで,この拙い議論のまとめがほんの少しでも読者の方にとって参考になれば幸です.

<学習院高等科とは?>

     T: ところでさ,大学を卒業しようとしている今,振り返ってみると高等科はどういう学校だったかな.よく「自由な学校」って言われるけど,その意味は何だろう.
     A: 俺は高等科の持つ校風を一言で表すと,「自分のケツは自分で拭け」だと思うな.
    

     T: 汚い表し方だな.しかも抽象的じゃないか.どういう意味だよ.
     A: つまり,こういうことだ.「高等科は生徒が自分の好きなことをとことんやることをできるだけ容認し,応援する.そして他の面がおろそかになってもギリギリのところまで,例えば落第や非行の危機に陥りそうになるまで,干渉はしない」ということだ.俺の場合,高等科時代に部活動として野球をとことんやったんだが,勉強の方がおろそかになってしまい,成績があまり良くなかった.だから,野球のレベルが高い大学に行くために大学受験をしたんだが,とても苦労した.ただ俺の成績が悪くても学校側が,部活動をやめて勉強に専念しなさい,と干渉することは全くなかった.
   

     T: なるほど.でも僕の友達で,部活動をちゃんとやりながら,勉強もすごくできた奴がいたよ.受験に苦労したことを学校の校風のせいにしてはいけない.
     A: そんなことはわかっている.それに部活に対する情熱は俺の方が,その勉強も部活もよくできた君の友人とやらよりもはるかに強かったはずだ.
   

     T: 確かに...(笑)でも君の言うことはよくわかる.僕自身の経験に合わせても同じことが言えるからね.僕は,君が野球に打ち込んでいるとき,アメリカに1年間留学する機会を得た.ロータリー・クラブの青少年交換プログラムというものを通してね.僕は中学時代から海外の映画が大好きで,特に現代のハリウッド映画が好きだった.あのダイナミックさ,あの楽観的な世界観や単純な人生観,そして美しい金髪女性たち(!)に強い憧れを持っていて,当然アメリカという国に対しても憧れがあった.今考えると恥ずかしい限りなんだけどね...だから英語の成績だけは良かった.それで更に運の良さが加わって,アメリカに留学することができたんだ.それはそもそも,高等科という場所・校風が,映画を沢山見ること,英語を集中的に勉強すること,そして1年間留学することを許してくれるものだったからだ.
     A: そうだな.でも大学で本格的に勉強することになって,やっぱり君は感じただろ.「ハリウッド映画にうつつをぬかしている間に,もっと高校時代で勉強しておけば」って.もっと高等科が勉強することを促してくれていればと.俺は受験勉強時代そういう思いがあったからなぁ.
   

     T: 確かに.でもそういう風に思う暇があれば,大学で一生懸命勉強すればいいんだ.君が受験時代に頑張ったように.高校時代に英語を集中的に勉強し,ハリウッド映画にうつつをぬかしていたからこそ,僕は留学できた.そしてそれを許してくれた高等科という学校のおかげだよ,僕が留学できたのは.
     A: まぁね.それで君はその留学をもとに大学の勉強を頑張ったからこそ,大学でまた留学することができた.そして留学先でまた頑張ったから道が開けて,これから君はイギリスの大学院で勉強するわけだ.俺も受験で頑張ったからこそ,今の大学に入ることができた.受験で苦労したけど,高等科で何かに打ち込めたこと,俺の場合は野球だったんだが,それは本当に良かったと思っている.
   

     T: それにしてもその自由の校風のせいか,高等科にはいろんなことに打ち込んでいる奴がいたね.勉強を頑張っていた奴もいたし,学校の勉強そっちのけで,とにかく本を読みまくっていた奴もいた.三国志・日本の戦国時代のマニアなんかもいたなぁ.映画・音楽にはまって,さらに絵や詩を書いていた奴もいたし,異性との交流を頻繁に持って社会勉強に励んでいる奴らもいたな(笑)部活に打ち込んでいた人も結構いた.
     A: いたねぇ.
   

        T: そういえばね,この間テレビドラマの金八先生の再放送をたまたま見たんだが,三者面談で,勉強熱心な息子と有名大学に入学させるため息子を私立に入れたいと言っている母親を前に,たしか金八先生はこう言ったんだ.「勉強して良い大学に入るために高校は私立,私立とおっしゃいますが,公立の学校には勉強ができる学生もいれば,運動が得意な学生もいます.他にも例えば絵が得意な学生もいて,非常に多様性があるんです」とね.「多様性」という特徴を公立学校の専売特許にするんだから,金八も浅はかだなぁと思ったんだ.
   

     A: まぁ,金八先生が言いたかったのはおそらく,一般的な傾向として,ということだろ.でも高等科には確かにいろんな生徒がいるし,それによってそれぞれ生徒が自分の人生観をもっと広げることができる.それは非常に重要なことだと俺は思う.だから一般的な傾向のなかで,学習院高等科は例外として貴重な存在だと思うね.
   

     T: そうか.しかし教員室にもいろんな先生がいたな.在学当時は,授業で教えてくれることの面白さとか意味とか,あるいは先生たちの性格をちゃんと理解できなかった.今はそう思うよ.だから僕は大学を卒業した後,高等科でお世話になった先生に会いたいと思って高等科に行くことが今でもあるんだ.僕が会いたいと思うのは,なにも金八先生みたいな先生じゃないよ.誰かが言っていたけど,学校において求められているのは「良い教師」というよりも,「良い教師陣」である,とね.なるほどな,と思ったよ.つまり僕にとって素晴らしい先生は,必ずしも君にとっても良い先生とは限らない.だから生徒が多様性豊かな学校なら,なおさら多様な教師たちが必要だ.そういう意味では学習院高等科は,とても「良い教師陣」を持っているんじゃないかな.
     A: 君の「高等科教師陣」に対する評価はすごく高いな.でも,俺の高等科出身の友人は,在学時代高等科の先生とはほとんど交流が無くて,今でもわざわざ高等科に行って先生たちの顔を見たいとは別に思わないらしいぞ.そういった学生もいる,ということを無視するのはよくない.君が先生たちと交流があったのは,留学をしたから,それに伴ういろんなことで先生たちにお世話になったからだ.俺の場合は,野球をやっていたから部活動で先生たちとの交流があった.他のことに打ち込んでいて,そういう先生との交流の機会がない学生だっている.
   

     T: 確かに君の言うとおりだ.でも僕は教師陣の評価なんて,そんな偉そうなことをやるつもりはない.あくまで僕の経験に基づいた意見だ.それに先生との交流はやっぱり自ら作り出さなくてはならないと思う.自分から授業の質問や進路相談などで先生にアプローチすれば,先生との距離は近くなるんじゃないか.もちろん,全ての生徒が同じ先生にアプローチしても皆が幸福になるわけではない.やっぱり先生と生徒という人間関係にも相性というものがあるはずだから.だからこそ,いろんな人生観を持った先生がいることが大事だと思う.高等科は生徒が先生に相談することを全然規制したりしないし,そういった雰囲気もない.高等科はある意味,生徒を "Laisser faire" 状態に置くけど,先生に何かしらのアドヴァイスを求めれば,それを与えてくれる.
     A: まぁ確かに俺もそう思うが,そう言えるのは今俺たちが卒業したからだろう.在学当時は,やっぱり生徒というものはズカズカと先生に近づいて行けない.それに先生に相談にのってもらえれば万事良し,ってことでもない.
   

     T: うん.先生に失礼な態度は良くないし,相談をすれば先生はいつも素晴らしいアドヴァイスをくれるというのは「神話」だ.それも日本特有の神話かもしれない.人格的に卓越したスーパー先生がいて,それに生徒が感動してついて行く,というイメージだよ.僕が言いたいのは,高等科においては生徒が先生に相談や質問することを禁止されていないということ,そして先生は人生・学問の先輩としてアドヴァイスをくれる,ということだ.ただ,これらは自分から求めに行かねばならないものだ.これも僕の経験から言えることだよ.
     A: わかった.ところで君が今でも高等科に行くときは先生たちに近況報告をするわけだろ.この居酒屋での飲みの最後に,僕にもそれを聞かせてくれよ.君は高等科時代に留学し,大学時代にも留学した.そしてこれからまた大学院留学しようとしている.これまでの君自身の留学経験を踏まえて言えることは何だろう.
   

     T: とても一言で答えられる質問じゃないな.でも君は今大学生だから大学に関連することを言おう.これは僕が非常にお世話になった日本の大学教授の言葉だが,僕もそう思うからそのまま引用して言うよ.つまり,「現在,高等教育は海外の大学で懸命に勉強して初めて修了するものだ」ということだ.僕は学習院高等科を卒業し,そのまま学習院大学に進学した.学習院大学はイギリスのオックスフォード大学マートンカレッジと協定留学の関係を持っているから,その協定留学で僕は留学したわけだ.しかし,そこでの勉強量には本当に苦しめられた.覚悟はしていたんだけどね.向こうでの勉強については,他のところで既に書いたから,以下のサイトを家に帰って時間があればまぁ見てくれ(http://www.gakushuin.ac.jp/univ/cie/nl12.pdf 2‐3頁).僕は学習院大学に籍を置きながら,有名私立大学のW大学でも,また国立T大学でも講義を受けた.合法的にね(笑)だからただ単に自分が在籍した大学での経験だけに基づいてこう言っているんじゃないぞ.
     A: つまり日本の大学に比べて海外の大学の方が圧倒的に学生に勉強させるということか.日本の大学の教育はなっていない,ということだな.君は,いわゆる西洋かぶれじゃないか.そもそも,とことん勉強すればすべて良しということではないだろう.時代がそういう人材だけを求めているわけではない.就職活動でもしてみろよ.大学でとことん勉強しました,させられましたって企業の面接で言ってみな.「はぁ,そうですか.それで?」と言われて一蹴されるのがオチだ.日本の大学は,「レジャーランド」だと言われていた時があったけど,それにはそれの良さがある.大学で学んで成長する,ということは何も図書館にこもって1日15時間勉強することじゃない.勉強を通して何を学んだか,それが重要なんだ.つまり,大学あるいは短大で何かをやって,学んで,得て,そしてそれを磨いていくということが重要だ.それは勿論勉強でもいいが,勉強じゃなくたっていい.部活で学ぶことは多い,課外活動で学ぶことは多い.もちろん勉強でもいい.こういうことをやってきて,それをちゃんと表現できる人材を社会は求めている.そういう意味では,いろんなことに打ち込めることを許す日本の大学は非常に良い環境じゃないか.
   

     T: 大学という場所は高校とは違う.たしかに「海外(特に欧米)の大学」すべてが日本の大学より優れているとは言えない.でもやはり有名大学は,ちゃんとした学生を社会に送り出したいというプライドがあって学生によく勉強させる.もちろん,その要求に応えない学生もなかには当然いるが.君がいう人材は,「社会」が求めているんじゃなくて,日本企業一般が求めているんだろう.さらにそういう考え方は大学を就職予備校にしてしまうんじゃないか.また,こう考えることもできないか.つまり日本の大学が学生を一生懸命勉強させなくてもよい環境になってしまったからこそ,企業は学生として本来の仕事をせずに他のことに打ち込んでいた人間を求めざるを得なくなってしまった,と.そもそも大学とは一体どういう機関だったか.僕の留学先の大学にも部活動をやっていた学生は沢山いた.しかし,彼らは部活動だけではなかった.
     A: 過去において大学への意味づけが違っていたというのは当たり前だ.俺は,時代の変化によってそれも変化した,ということを言いたいんだ.社会の変化によって大学に求められることも変化する.それにイギリスにはイギリス,日本には日本独自の「教育方法」があっていいだろう.日本の大学が,例えば君の留学先の大学よりも学生に勉強をさせないからと言って,日本の大学を全否定することは非常に狭い視野のなかで判断した結果に過ぎない.
   

     T: 日本には日本の,イギリスにはイギリスの,という考え方こそ狭い視野のものじゃないのか.そんなことを言っていると日本は世界に取り残されてしまう.よし,わかった.この点については,この居酒屋を出て,場所を変えて改めて話し合おう.ただ僕も認めることは,環境がすべてを決定しないということだ.環境は非常に重要だ.これは間違いない.でもその所与の環境のなかで,いかに自分が努力するかによって未来は変わると,まぁ若造ながら思うよ.日本の大学に行ったからよし,あるいは駄目,海外の大学に行ったからよし,あるいは駄目ということじゃない.
     A: そんなことは当たり前だ.さぁ,さっさとここを出て,違う居酒屋に行くぞ.
   

     T: 体育会系の学生はやっぱりよく飲むなぁ.それも大学で学んだことか... (終)
 

高等科,そして留学生活を振り返って

荻原秀樹
〈略 歴〉
1999年 3月 学習院高等科卒業後,早稲田大学理工学部入学
2000年 9月 デニソン大学交換留学
2001年 8月 早稲田大学退学
2001年 9月 ペンシルベニア州立大学編入
2003年 5月 ペンシルベニア州立大学卒業
2003年10月 トヨタ自動車株式会社入社
2006年 8月 トヨタ自動車株式会社退社
2006年 9月よりペンシルベニア州立大学院に留学

 私はアメリカにあるペンシルベニア州立大学を2003年5月に材料工学専攻で卒業した.留学へのきっかけは高等科時代にあった.

 学習院には高等科入試に合格し,入学した.高等科時代の思い出というとサッカーを一生懸命やっていたということ以外あまり浮かばない.勉強は試験前に頑張る程度であった.サッカーの大会ではあまり良い成績を収めることができなかったが,3年間を通してひとつの事に熱心に取り込めたということは今でも誇りに思っている.

 親しい友人の一人が帰国子女だったこともあり,漠然とした留学願望があったのは覚えている.しかし,サッカー部での活動を続けたく,また絶対に行きたいと思うほどでもなかった.

 留学を目指すきっかけとなったのは,高校3年生になる春に参加したサッカー部の欧州遠征であった.初めての海外での体験は大変貴重なものとなった.すべてが違った.町並み,人々の振る舞い,食べ物.文化の違いというのはまさにこのことなのだと感じた.驚き,また他の文化に触れる楽しさがあった.と同時に外国人とまともにコミュニケーションをとれなかった自分自身に対する悔しさは今でも忘れていない.他の文化で過ごしてみたいと思ったのはそのときであった.

 高校3年生の最後までサッカーを続けていたこともあり,大学の最初から海外に行くことはできなかった.しかし,指定校推薦で入学した早稲田大学に交換留学制度があることを知り応募を決意し,応募条件であるTOEFL(留学生用の英語能力試験)の必要点数にむけ勉強した.大学でもサッカー部で活躍したいという思いもあったが,理工学部のため出席しなくてはならない実験などが多く,TOEFLの勉強とサッカーのすべてを満足にやり遂げるのは難しいと考え,サッカーを続けることを断念した.

 交換留学の試験に受かり,オハイオ州にあるデニソン大学という小さな大学に1年間,交換留学をすることなった.日本でしていた英語の勉強は,結局テストのための勉強でしかなく,最初は苦労の連続であった.サッカー部に入部したため,アメリカ人の中に混ざることはできた.しかし,アメリカ人が何を考えているのか分からないことが多く,極度のホームシックにもなった.この頃は溶け込めないことを語学能力のせいにしていた節があった.しかし,今思い返せば英語能力の問題というよりは,私の溶け込もうという努力が足りずに,相手に受け入れてもらえなかったようである.文化の交流には言葉の問題よりも相手の文化を受け入れようという気持ちが大切だということを体感した.

 徐々にアメリカでの生活にも慣れた頃に1年の留学期間が終わりに近づいていた.1年で得られなかったものをみたかった.また,1年目は英語のクラスを中心を取っており,小さな大学の為自分の専攻である材料工学の科目はなかった.自分の得意な分野を海外で挑戦してみたいという思いもあり,編入を決意した.そこで,早稲田大学のときの専門で私が興味を持っている電子セラミックス分野で定評のあるペンシルベニア州立大学に出願し,編入した.卒業までのこの2年間は専門分野を学びながらも他の文化にも触れられる私のとっては最適な環境であった.

 結果的に高校の同期の人たちより2ヶ月遅れての卒業となったが有意義な遅れだと考えている.3年間のアメリカ生活で文化の違いを体感できたことが一番の収穫だと思う.英語は日本でも学ぶことができるだろうがこの感覚は日本にいたら決して感じることのできなかったものだろう.まだまだアメリカ文化を分かったとも思えないし,そう簡単に分かれるとも思わない.文化はそんな容易に理解できるものではない.ただ,この3年間のアメリカでの経験が今後の社会生活に生きるときは必ずあると思う.また,生かせる自信もある.高校時代に憧れていた海外生活ができたことを大変嬉しく思っている.今後も常に何か目標を持ち努力していきたい. 

高等科はすばらしいところだ

冨重実也
〈略 歴〉
1989年高等科卒,1993年学習院大学法学部法学科卒業.
(株)集英社勤務.入社以来,少女漫画誌「りぼん」「マーガレット」の編集を担当.
高等科時代,山岳部に所属.

高等科は素晴らしいところだ.是非,入学をお薦めしたい.

 ただ,高等科に受験して入学するというのは,少し特殊な存在になることを覚悟しておいたほうがいい.新入学で入った学校のはずなのに,転校生気分を味わうことになるからだ.既に三年かけて出来上がっているムラ社会に飛び込むことになるのだから.

 入学すると,まずその環境について考えさせられることになるだろう.そこで逃げず,自分で考えて行動する3年間を始めよう.そこから,未来への素晴らしい第一歩が踏み出せると思う.

今,私は出版社で漫画雑誌の編集をしている. 漫画家と打合せをし,作戦を練り,アイデアを出して,一緒に作品を作るのが,その主な仕事だ.漫画家と一対一で接し,どうすればより多くの読者に楽しんでもらうことができるかを考え,作品を世の中に送り出している.

 幸いにも作品に恵まれ一巻あたり百万部を超えるヒット作を担当してきた.いまや,漫画は世界に誇れる日本の文化だ.海外旅行先で自分の担当した作品の現地語版を目にすることもあり,とてもやりがいを感じる仕事だ.

 今,私にこの仕事ができているのは,高等科での三年間があったからだと信じている.

 作家との打合せにはマニュアルが存在しない.編集者の仕事は,こうするべきだというものにそって行うものではない.どんなやり方でも目的のためな ら何をしてもいい.ただし,自分で責任を取らなければならない.そんな今の仕事には,自由な高等科で過ごしたことは欠かせないと思うからだ.

 私の通っていた中学は,坊主頭が校則だった.教師が生徒の髪に指を入れ,指から髪が出たら,保健室でバリカンで刈られる.一事が万事そんな調子で,校則で何もかもが決められていた.

 そんな私が制服着用以外これといった校則のない高等科に入学した.先生達の放任ぶりに最初は面食らった.でも,それは生徒を一人の人間として,大人として接してくれていたからだと今は思う.

 中学までは,生活も授業も先生が1つの方向を提示し,それをすればいいというものだった.でも高等科は生活だけでなく,授業も自由だった.

 年に1度の長文レポート提出が課題の「日本史」.言語学の要素も盛り込む「古文」.中国語で漢詩を朗読する「漢文」.世相を斬る視点で刺激を与え てくれた「現代社会」.社会科は全体的に,教科書に書かれた内容をまず疑ってかかる講義で,物の見方や考え方の多様性を教えてくれた.

 受験勉強をしなくても大学に進学できるという利点を生かし,試験のための勉強ではない,刺激的な内容の授業が多かった.

 それは,大学で専門分野を研究していても不思議ではないような教養あふれる先生達のタレント性に拠るところが多かったと思う.

 授業以外でも先生達の魅力に触れることができた.所属していた山岳部では,顧問の先生と山小屋に泊まったり歩いたりしながら,時事問題からスポーツのことなど森羅万象について話したことは知的好奇心を大いに刺激された.

 このように生徒を大人として接してくれる環境は他になかなかないと思う.

 ただ,自由な環境は,何もしないのもまた自由.有意義に過ごすかどうかも自分次第.きっと普通の高校に進学するより何倍も色々なことを考えさせられたと思う.

 自分で考えて行動する.15歳から高等科で過ごしたことで,そのトレーニングを存分にできたと思う.今の自分があるのは,高等科の存在なしには語れない.