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卒業生からのメッセージ

全力で駆け抜けてきた三年間

2015年度卒 飯室 陸

 高等科の写真に写っているのは、真っ黒な肌、丸坊主の自分の姿。そう自分は、高校球児だったのだ。 
 思えば入部当初、自分はどうしようもないほど下手くそだった。そんな自分だが、高校生の時よく母から言われていた言葉がある。それは、「あなたは、人の何十倍も努力してようやく他人と同じラインに立てるのよ。」自分はこの言葉を胸に、二年半不器用ながらも全力で駆け抜けてきた。自分たちの代は、最後の夏の大会でベスト16まで進出した。ベスト16を決めた瞬間は、一生忘れることの出来ない感覚だった。しかし、自分にとってベスト16という功績よりも、少ない人数の中でグランド内外で汗をかき、白球を追いかけ、みんなで築き上げてきた二年半という日々の方が大きな誇りであり、高等科での一番の思い出だ。
 野球部に入って一つ分かったことがある。それは努力は報われなくても価値のない努力はないということだ。自分は、最後の夏にレギュラーを取れなかった。それ自体一生悔やみきれないし、自分の努力を全て否定された気がした。しかし、こうして引退して見た時、とてもやりきった気持ちになれた。なぜだろうか。それは、最後まで同じ情熱・モチベーションで努力をし続けられたからだと思う。目標は達成されずとも、努力をし続けることは、必ず何かを見出してくれる。自分はこのことをしっかりと胸に刻んでこれから先を進んでいきたい。

2006.3  学習院中等科 卒業
2009.3  学習院高等科 卒業
2013.3  学習院大学 理学部 物理学科 卒業
2015.3  東京大学 大学院 理学系研究科 物理学専攻 博士前期課程 卒業
2015.4~ 東京大学 大学院 理学系研究科 物理学専攻 博士後期課程 在学

鈴木博祐

 ぼくは学習院中高等科でのんびりと育ちました。好きな事だけをやり、遊びたい時に遊び、眠りたい時に眠る。夢の様な学校生活を送りました。共に時間を過ごしてくださった皆様、本当にありがとうございました。

 そんなぼくが大学に入ってから発見した事は「自分はわりと勉強が嫌いじゃない。」と言うことです。つまり、大変お恥ずかしい話ですが、ぼくは大学に入学するまで勉強が好きなのか嫌いなのか判断がつかないほどに勉強をしてこなかった、という事です。
 しかしながら、学習院中高等科 "らしさ" や、その "良さ" とは、こういったところにあると思います。

 例えば、もしぼくが学習院ではなく、バリバリの進学校に入っていて、半ば強制的に勉強させられていたら、ほぼ間違いなく勉強が嫌いになっていた事でしょう。そして当然の事ながら、博士課程に進学するといった現在の自分は考えられません。
 どなたの言葉か存じませんが「好きこそものの上手なれ」という言葉がありますが、好きになる前に嫌いになってしまったら元も子もないというお話です。

 中高等科で勉強をしなかったぼくは、コンピュータに夢中でした。コンピュータがあればなんでも出来る。そんな風に考えていましたし、今でもそう思っています。特にぼくの興味を引いたのはコンピュータを使った創作でした。ゲームや音楽、絵などの作品が、コンピュータを使えば創作できると考えると、とにかくワクワクしました。そうして創作をしながら様々なアプリケーションに触れているうちに、アプリケーション自体を創作することが出来るプログラミングやその仕組み(アルゴリズム)にも興味を持ち、そういった知識/技術を蓄えていきました。この時に得られたモノは、今でも自分の大きな武器の1つになっています。

 ぼくにとって学習院での学びは、「嫌いなものを増やさずに、好きな物を増やす。」といった作用があったようでした。また、そのような働きを享受するためには、学習院という恵まれた環境だけではなく「とにかく楽しく好きな事だけやる自主性」も肝要であり、それが自分の可能性を狭めることなく拡げてくれていたように思えます。要するに、ただ心赴くままに楽しい事をやればいいんだと思います。

 現在学生の方も、これから学生になる方も、楽しい学校生活をお送りくださいませ。




21世紀における創造的ゾンビ考

2006年 4月 学習院高等科 入学
2009年 4月 学習院大学 理学部 物理学科 入学
2013年 4月 筑波大学 数理物質科学研究科 博士前期課程 入学
2015年 4月 筑波大学 数理物質科学研究科 博士後期課程 入学

鈴木 遊


 面白いSFには条件がある。
 人を納得させるようなリアリティが、映像作品であれ文学作品であれ、真に迫って観客に提供させねばならない。それがたとえSFという、非日常を描く真っ赤な嘘であったとしても、である。
 どちらか片方の要素が欠けていると、それは忽ち駄作となってしまう。
 荒唐無稽なだけではならぬ。
 月並調でもならぬ。
 要はそれらの塩梅が肝心なのである。

 20世紀の終わりから21世紀のはじめにかけて、ロボットによる世界の支配を描いたSF映画が一世を風靡した。
 アクションシーンへの評価も勿論だが、何よりストーリーが評価されたのだろう。
 面白いストーリーだったのであろう。
 私も勿論そう思うし、売れたのだから多くの人がそう思ったに違いない。

 ではロボットが支配する世界というものの、どこに我々は現実味を感じたのか。
 無論、真面目な顔で話すようなことではない。
 本気でロボットが人間を支配すると考えているのならば―莫迦である。
 荒唐無稽だ。
 与太話である。
 だが、売れたのだ。面白かったのだ。このSFは。

 似た話をしよう。
 ガリバー旅行記第3篇はラピュータが登場することで有名だ。
 これは18世紀のイギリスの、当時の人々からすれば現代でいうところのSF小説であるが、それと同時に風刺小説でもあった。
 これがまた、たいそう売れた。
 評議会から子供部屋、遍くところで読まれたとまで言わしめたほどである。

 ラピュータは産業革命の権化だ。
 住民は皆、科学者である。
 彼らはいつも科学の発展を夢見て、飽くことのない思索に耽っている。
 一方ラピュータに住むことができない一般の人々は、荒れ果てた地上バルニバービで搾取され苦しい生活を余儀なくされている。
 産業革命の成功を受け技術革新にひた走る当時の社会を、天上の首都の病的な科学観を通して、スウィフトは「リアルに」描いたのである。

 この物語もまた、面白いSFであったのだ。
 彼らは何も旅行記そのものに魅せられていたのではない。
 それが見せるリアルさ、いわゆる「ありそうでなさそう」という感覚に、どことなく産業革命という世相を取り込んだその活劇に、彼らは魅せられていたのである。
 現実とは社会である。
 現実とは世相である。
 背後にそれらを背負いながら、なお荒唐無稽な世界を作り上げてしまうことこそが、「現実味」のある面白いSFに結びつくのだ。

 よく似てはいないだろうか。
 技術の進歩と、それによる支配。
 当時の人々は、物語を勿論小説として読んでいる。
 感情移入されるべきはバルニバービの人々であり、彼らの敵は天上の科学者であってその文明、機械に他ならない。それらはちょうど、我々が映画を面白いと思ったその感覚、その視点と対応している。
 機械の視点に立つ人間などいないし、面白くはないだろう。
 機械によって支配される人間の、その恐怖こそが我々のリアルであったはずだ。

 21世紀における、機械への恐怖のその根源とは何であろうか。
 ガリバー旅行記との類似を見れば答えは明らかだ。
 機械への恐怖とは、即ち職を失うという恐怖である。
 機織職人が紡績機に取って代わられたように、我々の仕事もまた機械によって代替されつつある。
 ボーリングのピンは人が手動でセットしていた。
 街灯は人が手で灯していた。
 電話は交換手と呼ばれる人々が中継を手で行っていた。
 20世紀も半ばの話である。
 切符を「切る」必要は今やほとんどの地域においては、ない。
 活版印刷は趣味や拘りの域になりつつある。
 証券の取引はもはや完全にオンラインだ。
 21世紀の話である。

 このような傾向は紛れもない事実である。これからの時代に生きる人間は、否応なく向き合わねばならぬことである。
 結果として、我々の仕事は機械によって二つに分断されてしまった。
 機械ができない、俗に云う「創造的な」仕事。
 機械化が意味をなさないような肉体労働をベースとした仕事。
 仕事の貴賤を問うているわけではない。選択肢の話を論じているのである。

 芸術は機械には無理だから崇高だとか、車掌は無くなりつつあるから価値がないとか、そのような話ではない。
 20年後に弁護士が要らなくなるだとか、いやそんなことはないとか、そのような話ではない。
 機械化を推進することで資本主義が終わりを迎えてしまうとか、そのような話ではない。

 そのような話は悉くつまらない三流のSFである。
 仕事というものは遍く同じ価値を持っているものだ。
 況やその未来を語ることをや、である。
 誰が何と言おうと、なるようにしかならぬものだ。
 それを論じることに意味などない。

 だが選択肢の多寡は別の話である。
 社会に出ようとしたとき、たった一つの道しか残されていなかったとしたら、今就いている職以外に全く選択肢がないとしたら、それは実に―

 危ういことであろう。

 そのような事態を避けるために必要なことは、ものは、何であろうか。
 「才能」ではない。
 社会は人が作り上げたものである。ならば後天的なもの―教育が肝要なのだろう。

 その点において、私は幸いであった。
 高校の2年生の段階において、物理という学問を志すための選択肢がすでに与えられていたからだ。
 物理学以外の道がなかったということではない。歴史、経済、文学、様々なものに興味がある中で、物理というものに特に惹かれたからである。
 多くの学友がそうであったように、私もまた多くの選択肢の中から物理という道を選んだ―否、選べたというべきだろうか。

 学習院高等科とは、そのような場所である。

 月並な問いをしてみよう。

 学校の勉強は、果たして社会で役に立つのだろうか。
 この問いかけは、しばしば論争の種となる―らしい。
 この種の誤解は言葉の定義の曖昧な理解によるところが大きい。次の似た問いを考えれば瞭然である。

 学校の教科書は社会で役に立つのだろうか。
 2つ目は否、1つ目は正だ。

 高等科1年の地理の授業のときである。
 教室に入ってきた先生は簡単な自己紹介を終えると、黒板につらつらと授業内容を書き始め―なかった。
 先生は扇状地や三角州の成り立ちを、ただとうとうと語り始めたのだ。
 板書を行うのは、漢字を伝えるときや簡単な絵解きのときのみ。
 寝ていた学生も多かったように思う。
 よく分からぬと言っていた学生もいた。

 私は―

 他のどの授業よりも多くのノートをとった。
 正直なところ、地理という分野それ自体に大した興味はもってはいなかった。
 しかし、その授業自体は大変面白かった。先生の言を漏らさず聞き取り、どれだけの情報をそこから得られるかという挑戦は、魅力的に過ぎたのであった。

 人の言葉から情報を得る能力は、勿論社会で役に立つ。必須であるといえる。
 一方で扇状地の成り立ちを知っていることは、別段役には立たない。
 これが答えだ。

 このことは模倣とコピーという2つの言葉で特徴付けられる。

 また一つ問おう。

 写実主義の風景画と写真は同じものなのだろうか。
 風景画の筆致が非常に精巧であったとしよう。
 丹念に丁寧に誠実に、写実に写実に風景を描いたとしよう。

 ならばそれは―写真と呼べるだろうか。
 それを描いた芸術家は写真家と呼ばれるのだろうか。

 ―否である。

 風景を描くという行為は、いわば自然を模倣することだ。
 写真を撮ることは、自然をコピーすることである。

 一見似たこの二つの行為は、その目的を全く異にしている。
 模倣とは、形を作るための「意志」即ち型を模するということだ。
 コピーとは単に形を模するだけである。

 地理の授業では、先生がかつてそれを学んだであろうその方法論をこそ学んだ。
 コピーとは教科書を読むということである。

 少しだけ自慢話をさせてもらおうと思う。
 私が中学生だったとき、私は勉強が嫌いであった。
 どうしても面白いとは思えなかったのだ。
 それでも形くらいはすればマシというものだが
 
 ―厭なことはやらぬ主義であった。

 中学生から学業をとってしまえば、大したものは残らない。せいぜい諾々と時間を費やすことくらいしかすることがない。創造性の欠片もない生活である。
 まさにゾンビである。
 当然、成績は目も当てられない。テストのたびに職員室に直行である。

 高校へは行きたかったので付け焼刃程度には勉強したが、所詮はその程度だった。動物もいい所である。
 しかし、高校の授業は何か楽しいような気がした。勿論、莫迦であったから1割も理解できてはいなかった。だが、面白いのであろうことは伝わった。
 だから追いつこうと勉強した。半年で平均以上にはなれたし、1年後には上位陣と言ってよい成績をとることができた。

 気付いてみれば―
 勉強が楽しくなっていた。
 学ぶということの意味がおぼろげながら判然としてきた。
 そして、その延長にいまの私の研究者としての人生がある。

 教科書だけからでは、決して学ぶことがなかっただろう。

 教科書を学ぶということは、つまるところその程度のことなのである。
 コピーとは大量生産であり、迅速実行が要だ。
 そんなことは―それこそ機械ならば、
 文字通り瞬く間に終える作業である。

 中学3年間程度を巻き返すことは、私にとってさえ造作もないことであったのだ。
 一方、模倣は一時にしてならずだ。高校の3年間を経て、大学で過ごすうちにようやくその意味合いが見えてきたものだった。

 別の思い出深い例を挙げておこう。
 高校3年生の時の数学の授業でのことだ。
 先生は2学期分の授業を1学期の間に終え、2学期では ε-δ 論法を英語の資料を使って教え始めたのである。
 ε-δ 論法とは極限の数学的に厳密な定義で、普通は数学科の大学生が四苦八苦しながら学ぶものだ。無論、正気の沙汰ではない。
 ほとんどの学生は理解できなかったと思う。

 だが一部の学生には非常に好評であった。数学そのものの面白さに感銘を受けた者、英語の文献を読む力が付いたと言う者、あるいは論理的思考力が鍛えられたと言う者、彼らは多くのことを学んだのであった。
 ε-δ 論法は社会に出て役に立つことではない。
 その過程で、彼らは教科書読みからでは決して得ることができないことを学んだのだ。

 同様の例はいくらでも出てくる。

 テスト問題のほとんどが論述の歴史のテストがあった。
 校舎の1階から4階までを使った化学の実験があった。
 映画を見せた現代文の授業があった。
 受験生を全滅させた数学のテスト問題があった。

 数え始めれば枚挙に暇がない。

 批判されるところもあろう。
 つまらないと感じた学生もいたことだろう。
 カリキュラムとしては問題があったかもしれぬ。

 ―ただ

 私にとって面白かったことは事実である。
 私にとって得るところがあったことは事実なのである。

 学習院高等科とは斯様な場所であった。

 学業のことを些か多く書いた。
 だが、このページの他の文章を読めば、高校時代の実に様々な出来事から多くのことを学んだ学生がいたことがわかる。
 学校行事、クラブ活動、小説、ゲームなど多岐に渡っていることだろう。

 重要なことは、その多様性が―その選択が許される環境があるということである。

 高校生ともなれば、もはや子供ではない。
 何を選び、何を捨てるのか。その選択の自由が与えられるべきである。
 高等科の自由な校風は、それに最適な環境なのだ。

 受験を考える中学生は、自らの選択肢を増やす方法を選択すべきである。
 何が正しいということはない。
 学習院のような場所で、「学問の模倣」から学ぶことも良い。
 進学校に進み、目指す大学のために教科書から学ぶことも良い。
 だが、それらの違いを考えることは必要だ。

 在学生の諸君は、自身を持って選択してほしい。
 多くの先達がそうであったように、学習院では主体的に動けば多くのことを学ぶことができる。
 何を選択するかは個人の裁量にゆだねられている。だがそれは、必ずや将来の選択肢を増やすための肥やしとなるはずだ。

 この拙い文章がこれから様々な選択を行っていく中・高校生の一助となれば幸いである。
 そして、もし機会があれば高等科を卒業したOBに遭ってみてほしい。
 彼らは多くのことを学び、そして社会で活躍している。彼らの選択は機械がなし得ないだろう実に創造的なものであったはずだ。
 そしておそらく、下手糞なSF小説から出てきたかのように荒唐無稽な性格をしているはずである。普通の人だという印象は受けないだろう。
 勿論ほめ言葉である。
 だが心配は要らない。彼らは間違いなくベストセラー商品なのである。

 では何故、彼らのような人間が魅力的に映るのか。
 何故、彼らが一様に成功を収めえたのか。

 何も別段不思議なことではあるまい。

 よく言うではないか。事実は小説よりも何とやら、と。

高等科生活を振り返って

平成26年度高等科卒
学習院大学1年
杉浦 仁誼

 私は体育がとても苦手だ。なぜなら私は体力がなく運動音痴だからだ。なので学習院の体育はとてもハードだった。  
 体育は二時間続きの週二回で、時間が長い分内容がしっかりとしている。水泳や柔道も私にとっては大変だったが、それ以上に持久走がつらかった。 
 まず距離が長い。中学生のころと比べると数倍の距離だ。そして私は足が遅いので、たいてい最後尾を走ることになる。そのうえ屋外で走るのでとても寒かった。正直に言えばサボりたいと思った。
 ただ自分でいうのは変だが成長したような気がする。ずっと出来なかった背泳ぎも一応できるようになり、バレーのサーブも成功率があがった。持久走のタイムもわずかに短くなった。そして体育を楽しいと思う時がある。
 学習院高等科は奇妙な高校だと思う。とても自由なのに規律が保たれている。そして生徒の強い個性を尊重してくれる。先生方も生徒のことを放任しつつもいざというときには守ってくれる。高等科を楽園と言う先生がいたがその通りだと思う。
 今まで私たちは学習院に守られていたが、これからは自分の行動に責任がついてくる。このことを忘れてはいけないと思う。この学習院で過ごした三年間はとても貴重なものだった。卒業するのは寂しいと思う。 
 最後になりますがこの場をお借りして高等科でお世話になったすべての人にお礼を申し上げます。
 余談だが私は学習院大学のある学部へ進む予定だ。そしてその学部では体育は必修らしい。とてもショックだ。



別に褒めてはいませんが...

平成22年 高等科卒業
学習院大学 心理学科 3年
鈴木香里武

 僕は高1の冬に、突然金髪にしました。今風のカッコイイ髪型ではなく、古臭いオスカルみたいなイメージです。校則に違反していないとはいえ、世間一般から見ると、「何かに反抗している」、「不良だ」、「チャラい」といった印象を持たれるでしょう。金髪での登校初日、高等科の先生方からかけられた言葉は、「お、いいじゃんそれ!」、「ベニスに死すみたい」など。極めつけは「欧米か!」でした。高等科とは、そのような学校です。
 僕のことではありませんが、同級生には「変わり者」もいました。つまり、大多数の人から見ておかしな言動をする人です。普通ならいじめられたり、無視されたりするタイプなのでしょうが、高等科は違います。その人のありのままを、クラスメートは受け入れています。「変わり者」という概念は、生まれてもすぐに消えてしまうのでしょうか。高等科とは、そのような学校です。
 文学部心理学科への内部進学を決めた僕にとって、高3の数学の授業、微分や積分といったものは、将来役に立つ勉強とは思えませんでした。ただ、担当の先生の数学に対する愛情がすごいんですね。僕らに教える以前に、まずご自身が問題に酔っていらっしゃった。そうすると、不思議なものです。教える側が教える内容に強い魅力を感じていると、教えられる側にも魔法のように伝わって来て、いつの間にかのめり込んでしまうのです。高等科とは、そのような学校です。
 僕は同級生との付き合いが悪く、部活もしていなければ、昼休みに皆と遊ぶこともほとんどありませんでした。典型的な、埋もれるタイプの生徒ですね。それでも、先生から心配されることはありませんでした。学校以外の時間、僕は秘密結社を作っていたほどご縁に恵まれていたからです。目に見える学校生活のみで判断されていたら、心配されたことでしょう。高等科とは、そのような学校です。
 大人はよく、子どもに対して「正論」を言います。例えば、「社会に出たら辛いこともたくさんあるから、今は学生として精いっぱい楽しみなさい」とか、「まだ若いから、焦らず、まずは自分についてよく考えて、自分を磨いていきなさい」とか。今と将来とを分けて考えた意見です。学生のうちに社会に関わるような取り組みを始めると、「まだ早い」、「中途半端だ」と決めつけられることが多い世の中です。僕は高等科生のときから仕事の準備をしていましたが、先生方は「おもしろい」と言ってくださいました。そのおかげで、予定通り大学1年で起業できました。高等科とは、そのような学校です。
 高校生は、それぞれ何かしらの専門分野を持っています。趣味と言った方が良いでしょうか。ある人は音楽、ある人は美術、ある人は動物。各々がその分野において「先」に「生」きています。高等科の先生方は、生徒と対等に話してくださいます。だからなのでしょうか。皆、先生の名前を呼ぶとき、「○○さん」と呼びます。高等科とは、そのような学校です。
 時々、無性に高等科に遊びに行きたくなります。高等科とは、そのような学校です。


高等科で学んだこと

学習院大学理学部物理学科3年 加藤 孝信(09年度高等科卒)

最近、高等科時代に温めてきたものが、次々と花を咲かせている。その最たるものが、今春の"全日本自転車競技選手権大会ロードレース"出場です。

「何をしても自由」
そんな高等科は、僕にとって、とても居心地のよい学校でした。
めちゃくちゃ頭のいい人もいるし、音大並みのアマチュアピアニストもいる。なかには、プロ並みに写真が上手い人もいた(彼は撮影のため全国に行っていた)。そして、個性的な生徒に負けじと、個性的な先生もいらっしゃる。
そんな中で、僕は高等科3年間全てを、趣味を追求してゆく時間として過ごしました。

中等科の頃、親の方針もあり、僕はたくさんの習い事をしていました。その頃、Jr.オーケストラの先生が「今は色々な事をやってみて、将来そこから3つくらい選べばいいのよ」と言って下さいました。
そして、高等科生になった僕は「自転車・カメラ・バイオリン」を選んだのでした。それこそ、勉強なんてそっちのけで「本気で」打ち込んだものでした。晴れた日の夜は、20cmもある望遠鏡を据え付け、家の屋上に毛布を引き、カメラと双眼鏡を手に夜半まで寝転がって星雲観察をして、母を本当に困らせたものです。

趣味の中で、特にバイオリンなどは、子供の頃は辞めたくてやめたくてしょうがない時もありました。しかし、親に叱られ続けていくうちに、上手くなっていき、そのうち自ら進んで練習するようになりました。そうすればしめたものです。やりたいから上手くなる、上手くなるからやりたくなる。そして上手くなると、また違う世界が見えてきます。そうやって、「継続する事」の大切さを学びました。

高等科3年の鳳櫻祭では、そうやって学んだ(世間的にはムダといわれる)知識を精いっぱい活かして、パンフレットの作成および、後夜祭の手伝いをさせてもらいました。賛否両論ありましたが、ポスターとパンフレットの写真は渋谷のスクランブル交差点で撮影。渋谷にたまたま居合わせた高等科生の友人に撮影を手伝ってもらったのは懐かしい思い出です。そしてモノクロフィルムも、自分で好みの現像を行いました。そして、パンフレットの印刷は、高等科OBの方の印刷会社にお願いしました。
ひと夏を丸々費やして、かなり好きなようにさせてもらったポスター・パンフレット制作。いつも、物事を中途半端で終わらせていた僕にとって、最後まで一貫して責任を持って製作し、それが皆に批評されるということは、新鮮な喜びでした。

話は変わりますが、最近大学の理学部図書館で懐かしい本―天体の位置計算―を見つけてしまいました。
高等科1年の頃、プラネタリウムを作るため、その本を片手に天体の座標変換のプログラムを書いたものの、動かず、鳳櫻祭で動かないプログラムを「ここまでやりました!」と展示したのは、今となっては良い思い出です。
そう、僕は高等科時代、地学部の活動の一環として、まだ誰も作ったことのない変則的な構造(12筒式と命名)のプラネタリウムを作ることに没頭していたのでした。当時は、幸いな事に周りからの理解が得られ、豊富な予算を割り振っていただくことが出来て、随分とやりたいように設計させてもらいました。
本当に、誰も作ったことが無いものなので、自分で一から図面を引きました。レンズ1つにしても、レンズ会社を回り、時には必要な性能を伝え、見積もりを出してもらいました。そして、秋葉原を回り、電子部品を買い集めました。LEDなどは、性能を満たすために、アメリカから輸入しました。そして、それを皆で組み立てたのです。そうして3年間掛けて皆で作り上げたプラネタリウムは、壊れやすく、レンズの性能が低かった事を除けば、高校生にしてはなかなかの物が出来たと思います。(今では笑い話ですが、製作が当日早朝までずれ込んで、毎年のように鳳櫻祭当日は大寝坊をしていました...)
しかし、今の僕にとっては、その評価はどうでも良いことです。それよりも、それを作り上げる過程で、重要なことをいくつも学びました。目標を達成するにはどうすればよいか、リーダーはどうあるべきか、周りの理解を選るにはどうすればよいか、チームの士気を上げるにはどうすればよいか、などなど・・・それらに答えなど在る訳もないが。そして、解らなければ考える。誰も作った事が無いのだから、教科書など無い。人が出来ないのなら、自分が考えるしかない...

そんな訳で、僕は高等科の頃、殆ど勉強をしませんでした。しかし、そうやって生まれた自由時間に様々なことを経験し、学びました。得た友人、楽しかった時間、そしてそれから学んだ物は、僕の一生の宝物です。そして、それは今も僕の中で息づいていて、役に立っています。

大学生になってから本格的に打ち込んだ自転車競技。自転車とプラネタリウム・バイオリンは全く違うものです。途中、怪我で1年以上リハビリもしましたし、実験が忙しく全く練習できない期間もありました。しかし、そうして学んだことがあったからこそ、自転車では強い意志を持って高い目標を達成することが出来ました。

そんな僕ですが、小さい頃からの夢は、エンジニアか研究者になることです。現在は、次に自分がやるべきことを考え、勉強と練習・趣味とを両立すべく、限られた時間を無駄にしないよう、日々努力をしている毎日です。


出る杭を温かく見守る校風

学習院大学日本語日本文学科4年 猪俣貴寛(08年 高等科卒業)

 現在、学習院大学の日本語日本文学科に在籍して江戸文学を専攻し、来春からは旅行誌の出版社での仕事に就く予定です。趣味の方面では、自主制作しているフリーペーパーを都内各所に本屋に配るなど、楽しい日々を送っています。ところで僕の幼少時というのは、ボール遊びはからっきしダメなものの、本を読んだり文のようなもの書いたり、文字にまつわる事の好きな子供でした。振り返ってみれば、そういった元来の素質を、他でもない学習院中高の6年間が今の自分につなげてくれたと思うのです。
 まず中等科での思い出の筆頭は、演劇部の部長をやり、部員を寄せ集めて文化祭で上演したところ、思いがけず「科長賞」なる年間団体賞を頂いたことです。その際、自作にこだわって徹夜でうなりながら書き上げた脚本がウケたことが自分の自信となり、「書く」ということの楽しみを初めて知りました。その後中高通じて、メンバーを集めては毎年妙な劇を文化祭で披露していました(縄文人の村に弥生人が稲作をもたらす設定の芝居など)。それから、高等科から部長をやった新聞部。ここでは好き放題楽しみました。先生にチョコでコーティングしたイカを食べさせたり、グラビア批評を載せたり、とにかく変な記事ばかり書いては印刷して生徒に配って喜んでもらうのがヤミツキになりました。その新聞を都の高校新聞コンテストに応募したところ、高等学校新聞連盟なるお堅い協議会から酷評が返ってきたことも、今となってはいい思い出です。とにかくそこでアマチュア新聞の快感にシビれてしまい、大学4年の今でもフリーペーパー作りがやめられずにいます。
 高等科2年の夏から1年間は、米国・メリーランド州にある協定留学校のセントポール高校に在籍しました。滞在中は、アメリカ流の生活や現地高校の勉強に触れたり、相変わらずも演劇の脚本を書いてアメリカ人の生徒に演じてもらったりと、様々な経験を重ねました。ところがアメリカの暮らしにも慣れてきた留学の後半ごろ、自分がいかに日本に関して外国人に語るだけの知識を持ち合わせていないかをしみじみと感じるようになり、もっと自国の文化を勉強したいと思うようになりました。帰国後、その思いがきっかけで学習院大の日本文学科に進学し、(留学を経て、国際政治や英文学でなく日本文学というのも珍しいパターンではあるのですが、)この学科選択がうまいこと自分の興味にハマりました。入学して学んでみると、自分の性質に合った江戸期の戯作文芸や町人文化の世界と出会い、「これぞ卒論のテーマだ!」と胸を張れる題材を得ることとなりました。これも、高等科が世界に視野を拡げる機会を与えてくれなければ出会わなかった道だったかもしれません。
 それから、先生です。今思えば、日々受けていた普段の授業というのは、先生方の高い専門的知識によって練られたレベルの高いものでした。とくに国語や倫理・歴史といった文系科目は僕の知的好奇心を絶えず満たしてくれ、文学部進学の動機となったのを覚えています。それぞれ自らのテーマ研究を経て教員となった学習院の先生の特徴は、やはり「専門性」です。学者タイプのような人も多く、先生方の自主論文を集めた「紀要」を出しているのも高等科のいい所です。何より、なにげない授業の脱線なんかが意外に含蓄に富んでいますし、教室の外でも先生が生徒にとりとめのないヘンな話をしてくれるのです。それから高等科時代は、先生のほとんどが僕たちの書いた新聞を見ては「これは面白かったねー」「今回は手を抜いたでしょ」などとニヤニヤして面白がってくれていました。それを聞いて、「あ~、こういう面白い大人が面白いと言ってくれてるんだから、こういうのやってていいんだな~」などと思い、ますます自分の好きな道に精を出していました。
 まさに、「出る杭を温かく見守る校風」といいましょうか。僕はしばしば人から、「なんだかよくわからないけど、とにかく昔から一貫性あるね~」と言われますが、中高の環境がうまいこと伸ばしてくれたおかげで変わらぬ興味を持ちながら今現在まで来られました。学習院に入ったら、豊かな環境でスポーツに打ち込むもよし、大学の進路をじっくり見据えて勉強するもよし。僕の場合、面白い仲間たちと、それからそれぞれの道に詳しい(ヘンな)先生たちに囲まれて、マイナー文化系のやりたいことをやりきった中高6年間でした。かくして、ここにも一人「学習院・純粋培養"ヘンなやつ"」が生まれたというわけです。

3年間を振り返って

3年E組 玉川 照道
 今日までの3年間、本当にあっという間のような気がする。俺は高校から学習院に入ったので、3年前の今頃は受験に多忙な日々を送っていた。そして学習院に入学した。それから色々な事をしてきた。人に褒められるようなことをやったりしたし、もちろん人に怒られるような悪いこともした。部活に、はまったりした時期もあったし趣味に時間を興じた時もあった。無性にバイトがしたくなってバイトをしたりもした。その中でいくつも途中で飽きたりして続かなかったものもたくさんある。というか、この3年間の間で続けているものよりも圧倒的に途中で放棄したものの方が多い。でも、放棄したものも含めてこの3年間で経験したことの中に無駄なものは一つもないと思う。些細なことでもそれらが全て今の自分に繋がっていると思うからだ。
  
 あと、今までの文章でもう分かったかもしれないが正直俺はかなりの飽き性だ。そんな俺でも、この3年間続けてきて人に誇れるものがある。それは皆勤賞だ。一日も欠かさず学校に行ったことは間違いなく将来自分の自信になる。でも、それは自分ひとりじゃ到底成し遂げられなかったと思う。夜更かしした次の日に起きなきゃいけない時間に起きることが出来なかったときに起こしてくれる母。それに学校が楽しいと思わなきゃ行き続けるはずがない。なので、学校生活を楽しいと思わせてくれた友達たち、それに先生方。本当にお世話になりました。有難うございました。

心からの感謝

2008年度卒業生 高塚恒平

僕は今年の3月に高等科を卒業し、夏からアメリカ合衆国アイオワ州のGrinnell Collegeという大学に進学する。日本の大学は1校も受験せず、ひたすら米国大学への進学をめざしたが、決してそれを前々から決めていたわけではない。実は、そのような選択肢は高等科2年生の夏までは僕の中に一切無かったのだ。
 
僕は高1の8月から高2の6月までの10ヶ月間、アメリカ合衆国、ネブラスカ州に留学をした。2歳年上の兄がやはりこの時期に留学していたことや、高等科の先生方が留学に対して非常に大きなご理解や後押しをしてくださったことが決め手となった。
中等科時代の僕は絶えず勉強に追われ、主管の先生に「心に余裕が無い」「アップアップしている」「ハンドルの遊びが無い」「世界が狭い」などとさんざん言われ続けて来た。
そのため、この10ヶ月の留学中は成績などは気にせず、とにかく「楽しむ」ことを心がけ、アメリカでしか経験出来ないことにたくさん挑戦しようと決意した。
 
出発前に母に言われた。
「やるか、やらないかを迷った時はとにかく思い切ってやってみなさい。行くか、行かないかを迷った時は必ず行きなさい。そこから何かが生まれるかもしれないから。やらずに後悔するより、やって失敗した方がずっといい。何度でもやり直しはきくし、その度に人間的にぐんと成長できるのだから」
と。この言葉を僕は心に深く刻みつけた。
 
さて、ホストファミリーの家は地平線が目の前に広がる大自然の中にあり、どこまでも果てしなく続く大草原では牛や馬、アヒル、犬、猫などがゆったりと生活していた。夜には満天の星がきらめき、時間がゆっくりゆっくり流れるように感じられた。
学校ではダンスパーティーに参加したり、アメリカンフットボール、バスケットボール、陸上、野球などのクラブチームにも積極的に参加し、泊りがけの遠征もした。 
そして、「やってみる?」「行く?」と聞かれた時はもちろん迷わず「Yes!」と答えてとにかく全てに挑戦してみた。 
そのおかげで友人も大勢でき、勇気や自信が持て、世界が大きく広がり、この10ヶ月間で僕は人間的にかなり成長できたように思う。せかせかと時間に追われるだけの今までの生活を味気なくも感じた。
 
しかし、高2の6月に帰国した僕は、現実問題として将来自分が何をしたいかを見越して選択科目を決め、その先のこともそろそろ真剣に考えていかなくてはいけない時期に来ていた。
そうは言っても、僕はまだその時点では安易に大学4年間の専攻科目を決めたくは無かった。幅広い分野のことを実際にやってみた上で、その中から本当に自分がやりたいこと、自分に一番合ったことを見つけたいと考えたからだ。
また、授業は、大人数クラスで教授の講義をひたすら聞くような受動的なものでは無く、アメリカの高校で経験したような、少人数制の能動的なディスカッション形式を強く希望した。
 
僕は約2週間ほど色々と調べ、何人かの専門家の話も聞き、アメリカからも資料を取り寄せ、最終的に、上記の条件を満たしてくれる「リベラルアーツ・カレッジ」への進学の意思を固めた。高2の7月のことだった。
 
「リベラルアーツ・カレッジ」とは、かのヒラリー・クリントンさんも卒業した少人数の全寮制の大学の総称である。一般教養を重視し、2年生の終わりになるまでは専攻を決めなくても良いというのが大きな特徴である。
 
僕は、200程あるリベラルアーツ・カレッジの中から「全米ベスト20位以内」の大学にターゲットを絞り、7校に願書を出した。
合否は、高校3年間の成績や活動、先生方からの細かな記述の推薦状、TOEFLとSATの点数、そして英文エッセイなどによって決定される。
中でも「英文エッセイ」は最も重要視される書類である。A4用紙一枚半くらいの短い自由題のものなのだが、僕はこれに3ヶ月以上を費やし、何回も何回も推敲を重ね、やっと満足のいくものを書き上げることが出来た。また、出願する7大学、それぞれ別の内容での補足エッセイも添えた。
 
TOEFLは英語を母国語としない人のための英語の試験、SATは日本で言うセンター試験のようなものだ。高2の9月からTOEFL、高3の4月からSATの勉強を始め、TOEFLは計9回、SATは3回受けた。
これらのテスト勉強はもちろんかなりハードだったが、勉強すればするほど努力が報われて点数が上がっていくし、自分で目標とする点数に達するまでは決して妥協しない粘り強さが大切だ。自分との闘いに勝って初めてその先の夢が実現するのだと言い聞かせた。
 
学校の成績や席次ももちろん非常に重要で、僕はトップでいることを自分に課したので、定期試験前はひたすら学校の勉強に専念した。
 
何事も「具体的な数字」を自分に課し、それを達成するまで決してあきらめずに不断の努力を続けることが重要だと思う。
 
おかげで運よく良い結果に結びついたが、僕はこのことに関し、「学習院高等科」にも心からの感謝をしている。
高等科の先生方は、内部進学を辞退して他大学への進学を目指す生徒に対しても非常に温かく、心からの支援、協力をして下さる。これからの厳しい時代を生き抜いていかねばならぬ我々生徒のことを、心底真剣に、そして親身になって考えてくださっているからだ。
その懐の深さ、生徒に対する愛情に感激し、なるほどこのような環境の中でこそ「広い視野」「たくましい創造力」「豊かな感受性」を持つ人間が育まれるのだと痛感した。
 
僕も、個人的にずいぶんと相談事をさせていただいた先生がいらっしゃる。その先生はいつも励ましてくださり、支えてくださり、休日や深夜の電話にも長々とおつき合い下さった。僕は、どのような言葉でお礼を申し上げたらよいか分からないくらい感謝している。
そのようなわけで、僕のリベラルアーツ・カレッジ進学は、「学習院高等科に在籍していたからこそ実現した」と言っても過言ではない。
 
 
このような非常に恵まれた環境にいる後輩の方々。是非己の目標をもち、自分を信じ、努力を重ね、各自の夢の実現にひたすら突き進んで欲しいと心から願っている。
そのために、もしもお役にたてることがあるならば、僕はどのようなことでもさせて頂きたい。
学校に対し、先生方に対し、後輩の方々に対し、微力ながら少しでも恩返しをさせて頂くこと。そのことこそが今後の僕の新たな課題でもあるのだから。
 

Be Different の精神

福原和人
〈略 歴〉
2003年3月 高等科卒業
2003年4月 学習院大学理学部化学科入学
2007年4月 学習院大学大学院自然科学研究科(化学専攻)進学
2009年4月 株式会社資生堂入社(スキンケア研究開発センター)

こんにちは。私は2003年に学習院高等科を卒業し、学習院の理学部化学科へ進学しました。その後さらに博士前期課程に進学して研究者としての基礎を築くため研究・勉強の毎日を送っています。この4月から会社へ勤務することが決まり、現在は社会人としてのスタートを待ちわびています。長い間学習院にお世話になり(なんと18年間!)、今改めて学習院の良さを顧みると本当に良い学校だったな~と思っています。

高校に入ると色々なことを考え始めるようになります。中でも、「将来自分は何をしたいのか?」という悩みは(少数の人を除いて)誰しもが抱える問題ではないでしょうか。そこでほんの一例ではありますが、ここにも同様の悩みを過去に抱えた先輩がいたことを理解していただき、私自身が考えたことを少し綴ってみようと思います。

高等科時代、実は私、将来のことに関してはあまり考えていませんでした。部活動(バスケットボール部)に夢中で、寝ても覚めてもそのことばかり考えて...1年次に理系コースを選んだのも、そのほうが選択肢が広がるだろうという損得勘定だったと記憶しています。で、気づいたら3年生になり進路を決めなくてはいけなくなってしまったわけです。そりゃもう、最後の最後まで悩みました。

ただ、昔から絶対に曲げたくない信念(というと格好良いけど実際は単なる「こだわり」)が私にはあったのです。それは、

「他の人と違うコトがしたい。誰も知らないことを知りたい。」

ということ。例えば大好きだったバスケットボールを例に挙げれば、バスケットシューズは誰とも被らないものをいつも選んでいたし、NBAの情報だって誰よりも詳しい自信がありました。(変わり者と言われてしまえばそれまでですが...。)それだけです。あとは、漠然としたサイエンスへの興味があるという理由で、他に誰も高等科から志願者がいなかった学習院大学理学部化学科へ進学しました。(注:他大受験をしなかった理由も色々とあるのですが、ここでは割愛します。)

さて、結果としてそこで私は「目覚め」ました。学ぶことの楽しさ、自分で物事を進めていく喜びを覚えたのです。辛い勉強だってもちろんありましたが、大学の勉強はただ試験で良い点を取るためでなく、自分の研究を進めるためにするという部分も大きいので全く苦痛ではありませんでした。大学入学当初の期待より何倍も良い環境で、思う存分サイエンスを学び、特に研究室でオリジナルの研究を始めた時にはすっかり科学研究の虜になってしまいました。でも、気持ちとしては、高等科時代にバスケット雑誌を片手に好きな選手について得意気に語っていた時と何ら変わりがありません。違うのはそれが「世の中に貢献した成果として認められる」ということです。理系学部に入れば学生の時から実績を上げることができ、自分の結果が世界中の研究者と共有できるのです。好きなことをやって、結果を大人から認めてもらえる。それって最高じゃないですか? 私は4年生から大学院を通じて3回の国内学会と1回の国際学会の参加することができました。国際学会はドイツのケルン大学で行われたのですが、自分が頑張って行った研究を海外の人が評価してくれるという感動は、言葉にならないほど嬉しかったです。
高等科を卒業してまだ6年。その期間で自分なりの成果を上げられたことはとても自信になりました。社会に出ればさらに数十年の時間がある訳で、その間どれだけ自分自身が成長できるか、今から楽しみで仕方ありません。先述のこだわりである「Be Differentの精神」、それだけでも強く思っていれば道は開けるのかもしれません。将来、また誰にも成しえなかったような成果をあげられるよう、今後も一生懸命に自分の可能性を模索していきたいと思います。

そして、なんだかんだやっぱり私の原点は学習院中・高等科なのだと思います。中・高等科は好きなことを存分にさせてもらえる環境、幅広い教養を身につけさせてくれるカリキュラム、大学の専攻を多くの選択肢から選べるアドバンテージなど、良いところを挙げたら枚挙に暇がありません。何より、当時は意識していなかったけど、先生方が何かを学ぶことに対してどんどん背中を押してくれたから今の自分があるのかなぁと最近思います。早く自分自身社会で活躍して、その恩返しがしたいと今考えています。
もしこれを読んで下さった方が何をしたいか迷っているのなら、理系学部に(願わくは学習院大理学部に)進学することを選択肢のひとつとして考えてみてはいかがでしょうか。きっと楽しい世界が待っています。あ、数学の成績とかは全然関係ありませんから、念のため。

それでは、皆さまと一緒に社会で活躍できる日を楽しみにしています。