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高等科NEWS

2017年度 沖縄研修旅行

2年生は本日より沖縄研修旅行に出発しました。
3泊4日の日程です。

羽田空港に集合して、今年も無事に出発しました。
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那覇空港に到着して、まずはバスの中で昼食です。
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そのままクラスごとに分かれて、ガマ、さとうきび畑の歌碑、さんご畑(Gala 青い海施設内)の見学にいきました。
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その後、ホテルにて、夕食となりました。
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2日目です。今日は渡嘉敷島に渡ってからコース別に研修しました。
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ビーチにてマリンスポーツをしました。
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シュノーケリングをしています。
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魚がいました。 P927002811.jpg




















ドラゴンボートに乗っています。
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釣りをしています。
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島内にある集団自決跡地にもよりました。その後、今日の宿がある沖縄本島の恩納村に向かいました。
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3日目です。今日もコース別研修です。
伊江島サイクリングコースです。伊江島で、自転車をレンタルして島を巡ります。 IMG_1737.jpg
地図を頼りに島の名所に向かいます。 _DSC822311.jpg
洞窟があります。 IMG_1752.jpg
山もあります。 IMG_1833.jpg
ビーチもあります。 _DSC8232.jpg
ビーチバレーもできます。 IMG_1875.jpg
こちらは、サバニ体験コースです。 P9280134.jpg
海中から撮影してみました。 P9280156.jpg
昼食はカレーでした。 P9280144111.jpg
4日目。最終日です。宿を出発し、首里城で解散しました。 _DSC8268.jpg
その後、那覇空港に再集合し、東京に無事に帰りました。


2016年度 沖縄研修旅行 

2年生が沖縄に出発しました。
3泊4日の研修旅行です。

無事に沖縄につきました。
台風が石垣島付近を進んでいたため、雲が多く、風が強かったです。
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昼食は、バスの車内でお弁当でした。
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クラスごとに分かれて、研修が始まりました。
まずは、糸数アブチラガマを見学しました。
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次に、佐喜眞美術館に向かいました。
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美術館の屋上からは、普天間基地を見ることができます。
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その後、無事にホテルに着きました。
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記念写真を撮っていたら、急な雨に見舞われました。
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すぐに雨はやみ、海水浴を楽しみました。
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夕食を食べて、初日は終了です。
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2日目はコース別研修です。
強風のためか波が高く、予定を変更したコースがありました。


伊江島サイクリングコースです。
まずは、船で伊江島に渡ります。
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自転車を借りて、サイクリングに出かけます。
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ビーチバレーを楽しんでいます。残念ながら海は遊泳禁止でした。
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リーフトレイルコースです。
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サバニコースです。
残念ながら海に出ることはできなかったです。
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室内でロープワークに取り組んでいます。
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昼食はカレーでした。
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沖縄体験コースです。
沖縄の家庭料理を作っています。
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午後はシーサーを作りました。
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戦跡巡りコースです。
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洞窟とガンガラーの谷コースです。
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3日目もコース別研修です。
天候はだいぶよくなりました。


リーフトレイルコースです。
まずは、グラスボートに乗りました。
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魚がたくさんいました。
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次にイノー観察をしました。
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午後は、さんご畑に行きました。
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亀もいました。
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マリンスポーツコースです。
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洞窟とガンガラーの谷コースです。
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伊江島サイクリングコースです。
伊江ビーチです。
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サバニコースです。
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夕食はバーベキューでした。
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最終日は、沖縄県庁前で解散して自主研修を行いました。
その後、空港に集合して無事に帰京しました。
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2015 沖縄研修旅行

1日目
無事全員集合しました。若干眠たそうにしながらも笑いがこぼれます。これから保安検査場に向かいます。
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到着です。暑い...。そういえば夏ってこんな感じでした。
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沖縄県立博物館
沖縄の自然・文化の今と昔がみえました。
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浦添城址は首里城以前の中山王の城址です。そこにある王家の墓は、静かな「夕凪」に由来する「ようどれ」と呼ばれています。最後の中山王の尚寧王は首里城時代の王でしたが、薩摩藩に滅ぼされたあと、故郷の浦添に眠りました。

左の写真がようどれ。内部のレプリカがようどれ館に再現されていました。内部の構造や何人かの王の存在自体にもまだまだ解き明かされていない部分が多いそうです。
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ようどれの上にあたる丘は「前田高地」と呼ばれ、先の大戦の際には、日米に多数の犠牲者を出した最大の激戦地でした。
米軍が上陸した北谷の海岸、その後すぐに建設され今は住宅街の中にある普天間飛行場、最初の激戦地の嘉数高台、司令部壕のあった首里城が一望できました。
浦添城址の遺跡の99.9%は戦争によって破壊されてしまいました。


反対に沖縄の中でも最もよい状態て残っている城址の中城城跡。アーチ門が特徴的です。
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かつて中城を守っていた護佐丸は、月見の宴を催している最中に阿麻和利に包囲されました。そのとき謀反の疑いをかれられていることを知りましたが、抵抗もせず自害しました。その月見の宴が開かれていたのはこの様な櫓の上かも知れません。一昨日の十五夜に見えたような月を護佐丸も見ていたのでしょうか。櫓から見下ろすと絶景が広がっていました。
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ホテルに到着し、夕食です。
テーブルごとの取り分けなのでちょっとした取り合いになってます。
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夕食後は国際通りのライブハウスにて沖縄の女性ユニット"ネーネーズ"のライブを観賞。学校では見られない激しい盛り上がりでした。
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盛りだくさんの長い1日でした。お疲れ様でした。


2日目
今日の朝食はバイキングです。
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朝食後は早速出発。今日も盛りだくさんです。  

56年前、宮森小学校を中心とした市街地で起きたジェット機墜落事故については事前学習を行ってきました。本日は当時宮森小学校5年生であった石川・宮森630会の会長久高氏に講演をしていただきました。
講演中、「ミルク給食の時間、生徒におかわりを注いでいると突然...」というお話のタイミングで、上空をジェット機が通る音がしました。恐らく多くの人が、当時を想像して感慨深い気持ちになったことと思います。
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平和祈念公園
平和の礎。24万以上の犠牲者といわれるとなかなか想像もつきませんが、その名前の羅列を目の前にすると戦没者たちの想いが押し寄せてくるような感覚があります。
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このような絶景の海岸で数々の自決があったとは想像もつきません。
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ホテルに到着しました。
ビーチで遊んでいます。ここまでは沈鬱な話が多かった分、気持ちも弾みます。
2015okinawahotelumi.jpg3日目です。
今日はコース別研修です。
朝食には南国のフルーツが並び、気分を盛り上げます。
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伊江島サイクリングコースです。
伊江島には、フェリーで渡りました。2015okinawaiejima3.jpg自転車で島を巡りました。
2015okinawaiejima1.jpgきれいなビーチも堪能しました。
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2015okinawaiejima6.jpg洞窟&ガンガラーコース
沖縄ワールド内の玉泉洞の探検ツアー。日本で有数の石灰岩洞窟のより深いところを探検します。下の写真の地点は数百年前に落盤したところとみられます。下の岩はそのとき落下したものです。その上には鍾乳石の赤ちゃんが無数に育ってきています。頭をぶつけて鍾乳石を傷つけないよう、ときには体を水に浸けてに進みました。
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午後のガンガラーの谷の散策をしました。沖縄の自然に圧倒されました。本州では見たことのないような植物や、カラフルな虫の宝庫でした。ここ周辺は数千年前から港川原人の居住エリアでした。我々の祖先かもしれない彼らの遺骨はごく浅い地層で見つかっています。彼らも同じような景色を見ていたのでしょうか。発掘調査の現場も見学できました。
夜はバーベキューでした。
最後の夜を目一杯楽しみました。
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4日目
朝食を食べて、すぐにホテルを後にします。
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午前中は国際通りにて自主研修です。
ガイドさんともお別れです。
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空港は修学旅行生でごった返しています。今日だけで3000人の修学旅行生が利用するそうです。
まもなく搭乗です。
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飛行機から見下ろせばすばらしい雲海が広がっていました。関東地方の悪天候が心配されましたが、現在は回復しているとこのこと。
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無事羽田に到着し、解散しました。お疲れ様でした。
気をつけて帰ってください。
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2014年度沖縄研修旅行

2年生が沖縄に出発しました。
3泊4日の研修旅行です。

無事に沖縄につきました。
日差しが強く、とても暑いです。
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まずは、県立平和祈念資料館・平和の礎と普天間基地の見学です。
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その後、ホテルでの夕食となりました。 _DSC4945.jpg

中華でした。 _DSC4946.jpg

夕食後、国際通りに向かい、 _DSC49601.jpg

ネーネーズのライブを鑑賞しました。 _DSC4969.jpg

踊ってます。 _DSC5001.jpg

2日目です。今日もとても暑かったです。
まずは、うるま市立宮森小学校に向かいました。
武者小路実篤氏寄贈の「仲よし地蔵」に献花し、祈りをささげました。 _DSC5023.jpg

その後、石川・宮森630会の豊濱光輝氏にジェット機墜落についての講演をしていただきました。 _DSC5028.jpg

昼食後に戦跡を巡り、最後に座喜味城跡を見学しました。 _DSC5055.jpg
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ホテルに到着後、海水浴を楽しみました。 DSC00663a.jpg
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3日目です。今日は、コース別研修です。
塩川ビーチにて、マリンスポーツを行いました。

ドラゴンボートに乗っています。 DSC01106.jpg
カヌーをこいでます。 DSC02263a.jpg
シュノーケリングをしています。 DSC03456aaaa.jpg
ふぐがいました。 DSC03746aaa.jpg

伊江島サイクリングコースです。 IMGP7310.jpg
伊江ビーチです。 IMGP7369.jpg
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サバニコースです。 DSCN1150.jpg
最終日は、首里城公園の守礼門前での記念撮影と那覇自主研修を行い、 無事に帰京しました。
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H25年度 沖縄研修旅行 

初日
 遅刻者もなく予定通り出発です。
PA020017-picsay.jpg那覇空港に到着です。ここからはバス移動になります。少し雲が多いです。
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南部戦跡の見学。糸数壕。
講義を受けて、実際に内部を見学すると生徒の表情も引き締まりました。PA020047.jpgPA020054.jpgPA020049.jpg
ひめゆりの塔。
同年代の学徒の境遇に何を感じたでしょうか。
PA020051.jpgホテルに到着。クラス集合写真を撮りました。
目の前に海。天候が持ってくれることを祈ります。
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2日目
眠い目をこすりながら朝食。沖縄らしい食材が並びます。
PA030088.jpgPA030076.jpg 見えているのは本部半島。美ら海水族館を目指します。
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到着。ジンベイザメの前で記念撮影。
PA030133.jpgPA030135.jpgPA030148.jpg PA030172.jpg きれいなビーチが広がっていました。
PA030223.jpg PA030182.jpg 佐喜眞美術館で「沖縄戦の図」を見ながら絵にまつわる背景を聞きました。
絵が伝えたいこと、想像してください。
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疲れを知らない生徒たち。ホテルに着くなりビーチへ。
強風のため、遊泳はなしでした。
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今日は盛りだくさんです。「しゃかり」のライブ。
みんなで「ハイーサッ!ハッハッハッハッ」と合いの手を入れました。
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3日目
 台風の影響で帰京のスケジュールが変更になりました
またコース別研修も一部内容が変更されました。


●シーサーの作成。
漆喰で作る焼かない伝統的な手法。sisa4.jpg かつてのシーサーは対ではなかった。

●沖縄そばを作っています。
かまどで出る木灰の灰汁を薄力粉に加えて練ります。
そば粉は使わず、そばというよりも、ラーメンがルーツ。

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●エイサー体験。
本番は1日中踊り続けます。体力勝負。

●サンシン体験。
「島唄」に挑戦しました。
●マリンスポーツ

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●リーフトレイル
沖は波も高いですがサンゴの浅瀬の効果で海岸付近は穏やかです。
プールのようになっているところには体を浸けて生き物を観察しました。
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サンゴ畑の見学も行いました。
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●洞窟探検
ガンガラーの谷と玉泉洞の見学を行いました。
        ガジュマルの根が生い茂る。                     自然の地形を利用したカフェで休憩

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●サバニ体験 
ロープワークなどを習いました。
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夕食はバーベキューでした。 bbq.jpg
4日目
 2年生沖縄研修旅行は台風23号の影響で航空便が欠航となり、帰京を1日延期しました。待機となった10月5日はホテルみゆきハマバルリゾートにて過ごしました。
外は朝から徐々に風が強くなり、しなる木にかかる波しぶきがまるでニュース映像のように感じられました。
PA050481.jpgホテルのホールには卓球台が自由に使えるように用意され、卓球大会に興じる人、友人と語らう人、生徒は思い思いの過ごし方をしていました。
PA050440.jpg この研修旅行では学んだことを各自レポートにまとめることになっています。主管の先生から今日の課題として、午後3時までに下書きを一旦提出するよう指示が出され、生徒はじっくり取り組んでいました。
PA050449.jpg昼食はホテルでタコライスを食べました。
PA050467.jpg午後3時には全生徒が集合し、昨日のコース別体験のプレゼンテーションを行いました。班ごとにプロジェクターで写真を映しながら、代表生徒のトークショーで体験を共有する会となり、行事を振り返り深める経験ができたようです。
PA050469.jpg PA050478.jpg 明日はいよいよ帰京日です。生徒は荷物を整理し、帰京の準備をしました。




5日目
延泊となりましたが、本日帰京です。
雲が減り、晴れ間が見えますが、風は強いです。
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無事、羽田空港に到着し、先ほど解散しました。
明日の1時間目に遅刻しないように。
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特別講義(1年生)

9月19日15時半より、一橋大学 大学院社会学研究科・社会学部教授の多田治氏をお招きし、高等科1年生を対象に『沖縄イメージを旅する』というタイトルで特別講義を行っていただきました。
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来年度の沖縄研修旅行の事前学習の一環としての講義ですが、最初に多田先生の専門である社会学についても講義していただき、その後、基地とリゾートとしての沖縄の二重性、その複雑な歴史をさまざまな写真を見ながら、戦前期の沖縄にまで遡ってお話いただきました。
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講義の後には質疑応答やインタビュー、さらにはサインまでいただいた生徒もおり、生徒たちにとって貴重な体験となりました。事前に多田先生の著作を読んでいたこともあり、活発な意見交換もできました。
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インタビューの最後には高等科生に向けて「沖縄に行く前にたくさん勉強しておくのは、とてもいいことだけど、行くときにはいったん頭を真っ白にして、現地で思いっきり楽しみ、いろいろ感じてきてほしい。そして、大事なのは帰ってからで、行きっぱなしにするのでなく、折にふれて沖縄のことを考え、また学び続けてほしい。」というメッセージをいただきました。多田先生本当にありがとうございました。

特別講義『黒潮より』

 2月4日、1年生を対象に冒険家の八幡暁氏による特別講義が行われました。沖縄研修旅行事前学習の一環として「黒潮」を切り口に沖縄を考えるというテーマでしたが、講義内容は八幡氏の体験から紡ぎ出された現代社会の見方や、これからの生き方にまで及び、スケールの大きなものとなりました。学習院高校の講演を終えて生徒教員とも深い感銘を受けました。

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赤線は八幡氏がカヤックで漕覇したコース


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講義後に八幡氏に直接質問をぶつける生徒たち

講義後に八幡氏よりメッセージをいただきました。


学習院高校の講演を終えて

 講演の黒潮資料を作っている時、ふと自分が高校生だった頃を思い出していました。修学旅行。京都へ行くため、歴史を学ぶ事前授業。何も学んでないことを「作文させられた」と、感じていたことだけが記憶に残っています。勉強に身が入らなかったこと。やっていることに意味がないのではないか。未来への漠然とした不安。学校生活で本気を出せたのは、部活動だけでした。それは何かを解決するものではなく、思い切り自分の体や仲間を信じることが楽しい、そういったものでした。今の高校生は、どういった不安の中にいるのだろうか。黒潮のことを切っ掛けに、もっと本質的な話をしてみようと思うようになっていました。

 この時代、黒潮の知識はいくらでも調べられます。黒潮は、何の切っ掛けか。修学旅行を充実させるためのものではない。修学旅行もまた何かの手段です。高校時代、そうしたことを考えていなかったので、これを考えてみよう。講演の軸は決まりました。さらに踏み込んでみたい。優秀な学者、研究者も沢山いる中で、わたしが学生の前で話をする意味はなんだろうか。勉強せず、就職せず、38歳まで生きてきた人の姿は、彼らが思い描く大人としては異質に映るはずです。このことの意味を伝えてみようと思ったのです。

 自分を取り巻くあらゆるものに意味づけがされている現代社会。客観的に数値化されるものが評価を得る時代です。人知を超えた存在や八百万の神に揺すぶられることのない暮らしは、当然、画一化していきます。そこに閉じ込められ、優劣をつけられれば息苦しいに決まっています。本来、人の可能性はどこにあるかわかりません。それぞれの価値は、まだ誰も見出せていないところにあるのかもしれないです。学びとは何か。評価に値することを学ぶだけではない。未知を知り、また新たな未知と出会うことこそ、人が何万年も続けてきた学びの本質です。生活から遠い存在である黒潮とは、学生にとって未知ものではないか。そしてわたしは「意味がないとされること」を実践し続けてきた大人であり、人生を楽しみ、周りには愉快な仲間がいること、それを示せれば何か感じてもらえるのではないかと当日を迎えたのです。

講演は拙いものだったと思いますが、何人かの生徒は質問に来てくれました。その夜、フェイスブックへの友達申請があり、その中には、嬉しいメッセージもあったのです。「今まで聞いた話で一番面白かったです」文字どおり単純に面白かった、ということでは無い気がします。道を外れることは、自分達の知っている世界観を、ちょっと飛び出せたことでもあります。広い視野をもってみれば、あらゆることは誰かに優劣をつけられるものではありません。そんな言葉を投げかける大人が、その学生の周りにはいなかったのではないかと思えました。

「君達は、生まれた瞬間から、存在を肯定されている」

その事実は、高校時代のわたしに投げかけてあげたい言葉です。今回の講演で、何人かの生徒にそう感じ、生きる糧にしてもらえたならば、それは成功だったかと思います。

今回、高校生に話をする機会を作って頂きまして、ありがとうございました。わたしにとっても、とても有意義な時間になりました。何かの形で、またお会い出来るのを楽しみにしています。


12年度 2年生 沖縄研修旅行

2年生が、沖縄に出発しました。
3泊4日の研修旅行です。

初日は、那覇市内戦跡、博物館、資料館めぐりです。


真嘉比の遺骨収集現場付近で具志堅氏から説明を受けている様子です。
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激戦地だったシュガーローフを訪れています。
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県立平和祈念資料館も見学しました。
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夕食後に、具志堅氏に講演をしていただきました。講演後には、質疑応答が活発に行われました。
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10月3日(水) 沖縄研修旅行2日目です。

今日も沖縄は良い天気です。
DSC04215.jpgまずは、美術館と米軍基地めぐりです。

嘉手納基地を道の駅から見学しています。
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佐喜眞美術館を見学しました。
DSC04154.jpg美術館の屋上から普天間基地を見学しました。
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昼食後、比嘉氏に講演をしていただきました。
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その後、美ら海水族館に見学に行きました。
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夕食後は沖縄芸能鑑賞会として、『しゃかり』に演奏していただきました。
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10月4日(木) 沖縄研修旅行3日目です。

本日は、コース別研修です。

マリンスポーツの様子です。
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伊江島サイクリングコースの様子です。
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カヌーとマングローブの森コースの様子です。
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10月5日(金) 沖縄研修旅行最終日です。

本日は、国際通りでの自主研修の後に、帰路につきます。

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那覇空港に集合した後、無事に羽田空港に到着しました。


沖縄研修旅行に参加した皆様、お疲れ様でした。



2年生沖縄研修旅行 3日目

 3日目。マリンスポーツの様子です。

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2年生沖縄研修旅行 1日目

 2年生は本日、沖縄研修旅行に出発しました。
無事到着し、写真は辺野古の話を聞いているところです。

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琉球融合文化のカッコよさと沖縄戦跡~『沖縄のいまガイドブック』を読んで|1A09 猪俣 貴寛

りんけんバンドの照屋林賢氏らの対談集である同書が出されて十年の今、安室奈美恵・SPPEDを経て沖縄のポップは隆盛を極め、ザ゙・ブームの『島唄』は遠くアルゼンチンで旋風を起こすほどだ。それだけではない、ゴーヤをはじめとする地元の食品は今や全国区だし、ゴルフの宮里藍らスポーツにおいても沖縄が注目を集める今、僕が思うのは「沖縄にはかなわない」ということである。本土の画一的なセンスとは異なり、本当に沖縄発のものは格好いいと思う。前半の沖縄文化に関する林賢氏らの話からその本土とは違う感性というのは「チャンプルー文化」によるものとわかる。チャンプルーは炒め物の意で雑種文化の例えであり、方言や音楽、料理などさまざまなモノに中国・アジア諸国・日本本土それにアメリカからの影響が混ざって見られるということで、中央なら中央に統一された日本の構造とは一線を画する。
話はそれるが、以前訪れた那覇の牧志市場界隈の混沌には感動した。市場に山と積まれた豚足や牛の胃袋、オキナワンブルーの魚、島ラッキョウ、豆腐よう、そしてスパム。レコード屋では地元発インディーズ系CDの隣に年代物の三線。朝鮮人参を売る少年。そして市場の雑踏の中、ひとり老人が吹くハーモニカのノスタルジックな琉歌は終戦直後から時が止まっているんじゃないかと思わせるが、一歩国際通に出れば南国は時間に寛容なのか夜8時くらいまで中学生がケータイ片手に遊んでいる。沖縄のカオス文化をのぞくなら国際通、それも市場周辺がすごい、というのが僕の体験談である。さて閑話休題

『唐ぬ世から 大和ぬ世 大和ぬ世から アメリカ世 
ひるまさ変たる くぬ沖縄』

という中国から日本、そして米軍統治と沖縄の時代のめまぐるしさを謳う民謡の一節がこの本のコラムに引用されていた。多くの国の支配の下にあった琉球の歴史は必ずしもいい過去とは言えないが、少なくともそういった背景が現代沖縄の融合文化を作り上げたといえるだろう。
また沖縄といって忘れてはならないのが太平洋戦争と基地問題であり、この本の後半は画家の名嘉睦稔氏と現地ガイドの村上有慶氏の平和についての対談となっている。印象に残ったのは鍾乳洞「ガマ」についての記述で、そこから出てくる遺骨や不発弾といったものは戦争時代の悲劇を物語るという。爆撃を恐れてガマに逃げた当時の住民達はどんなに外の青空と太陽を望んだろうか。前にひめゆり資料館に行った時見聞きして感じた酷さは今も覚えているし、摩文仁慰霊塔の前で花を売る、というか売りつける(おそらく沖縄戦を体験したであろう)老婆たちの姿も印象深い。青い海と白いビーチのオキナワにもいろいろな形でまだ生きて残っているのだ、あの地上戦は。是非今度の研修旅行ではそのときの人々の苦しみにじかに触れるような体験をし、普段気づかなかったことに気づいてみたい。
そして基地問題であるが、最近イラクへ向かう米兵の多くがこの沖縄米軍基地から出発すると耳にした。二度と戦争をするまいと誓うような経験をした島から戦争に行く兵士らが飛び立つというのは皮肉なことだ。安保から国の思いやり予算まで細かく解説してあったので基地に対する認識も深まったが、なかなか一筋縄ではいかない問題が横たわっているようだ。こういった話を読むと、戦争を体験していない世代である僕などにできることはやはり憲法9条を変えずに守るということだと思う。実際に沖縄に行って、自分の平和に対する考えが強固になるとよい。
最後の、林賢氏の話を読んで思ったことを書くと、実に沖縄に生まれた自分と同じ年代の高校生がうらやましい。年に一度の旧盆のエイサーでは若者達が恋の気分を抱きながら踊るそうだ。好きな人が遠くに居るのを見ながら、あるいは一緒に居たりして夜通し月の下で踊るという。実にうらやましいではないか。なぜ東京にはエイサーがないのだろう。東京音頭ではこうはいかない。沖縄生まれでないことを非常に残念に思う。そういう伝統が普通に息づいていて、若者が普通に日常の中でそれを継承している。こういった所がまた沖縄の格好よさだ。

六十年前の「現実」|1A20 桑島 良隆

 太平洋戦争時、沖縄が唯一の本土での戦場となったことは、周知の事実である。だが、大半の人はその中身を知らない。今の日本を考えるにあたって、この中身を知るか知らないかでは、大きな差が出てくるであろう。
 今回私が読んだ、石原昌家著『沖縄の旅・アブチラガマと轟(とどろき)の壕―沖縄が戦場になったとき』は、沖縄での戦争の悲惨さを、アブチラガマ(糸数壕)と轟の壕と呼ばれる壕で起きた事実をもとに描いていった作品である。また、CGで壕の中の構造が再現されているのも特徴といえる。
一通り読み終わったときの正直な感想は、「よく分からない」というものであった。ただ一概に、書かれていることが分からないということではない。「想像できない」のである。例えば、本書に出てくる「重傷患者」を挙げれば、彼らは手足が無かったり、傷口にウジがわいたりし、もだえ苦しみながら亡くなっていったということだが、果たしてこれが今を生きる十代、二十代の我々にきっちりと頭の中で想像できようか?元々私は「うじ」を見たことが無かったので、インターネットで検索してみた。言わずもがな、正視にたえないものであった。あれが体につき、肉体をむしばむなど、とても想像がつかないのである。他にも、「餓死」や「自決」など、今の我々には最早無縁に近い言葉が、本書には当たり前のように出てくるのである。「分からない」と感じる一方、今の状態が崩れることへの「恐怖」も、同時に身を襲った。
 確かに本書には、日本兵の残虐性も書かれているのだが、どうしても首をひねってしまう。目的のためならば罪無き子供をも殺した日本兵。怒りを覚えるのは当然なのだが、一方で、ここまで日本兵を追い込んだのは何なのか、という疑問が頭をよぎる。まだ十六年しか生きてなく、銃を持ったこともなく、そして「国のために」人を殺したことのない私には、少し理解が難しいと感じた。
 大江健三郎の著書に、『芽むしり・仔撃ち』というものがある。こちらが不快になるほど、戦争の醜さが生々しくつづられている本であるが、今回石原昌家の著した沖縄の本を読んだことで、計らずも『芽むしり・仔撃ち』が思い出された。大きな不快感を覚える一方、日本人として受け止めなければならない事実であるということが、この二冊から思い知らされたような気がする。
 今の我々に足りないものは多く存在すると思うが、その一つが「過去を知らなすぎる」ということだと私は考える。「戦争で何万人という人が死んだ」だけではいけない、「なぜこんな戦争が起きたのか」はもちろん、「一体どういう死に方をしたのか」「死ぬとき一体どういう気持ちだったのか」など、戦争の中身を知らねばならないのである。そのために、本書やその他多くの戦争に関する本は存在するのだろうと私は考える。戦争の中身を知るか知らないかで、たとえ同じ結論に至ったとしても、それが持つ重みには大きな差が生まれる。これは必然であるとは言えないだろうか。

「おかしさ」から見える沖縄の魅力考|1B08 河野 雄哉

 自分の住んでいる島を一歩出ると、日常とは違う世界に「これはおかしい」と思う。この「おかしさ」こそ、そのものがもつ魅力を知るためのパスポートなのではないか。著者の名嘉睦稔は初めにそう述べている。
 このガイドブックを介して沖縄へ行った。僕が住む東京から遠く離れている沖縄は僕にとって「おかしい」土地であり、その土地の文化は僕にとって「おかしい」文化だった。この地には沢山の「おかしさ」がある。沖縄の魅力はそこから繋がっているのだろう。僕はこの「おかしさ」を考察していくことでそこへ辿り着くことができれば、と考えた。「林賢は小さいときはウチナーグチ(沖縄の方言)ではなくて共通語を使っただろう。」「家では共通語はあまり使わなかった。」
 このガイドブックの著者である睦稔と林賢の会話だが、ほとんどが共通語で話される東京に住む身としては、「おかしい」と思わせる内容である。方言と共通語を使い分けることがあるのだろうか。会話は続く。
「学校へ行ったら。」
「学校へ行ったら、さんざん言われた。ウチナーグチを使うな、日本語を使いなさいと。僕の母親といとこの先生もそう言っていた。」
「共通語励行ね。」
 なんと、共通語励行という考え方により、場合によっては方言でなく共通語を使わないと罰を受けることさえあるらしいのだ。励行の理由として沖縄の人が言うのは、「ヤマト(本土)に行ったときに困る」「ヤマトゥンチュー(本土の日本人)に負ける」「ヤマトともネットワークしなければならない」のように本土の日本人を意識したものだ。こうした考え方が伝わっていくのは、かつて沖縄が独立した「琉球王国」だったことと無縁ではない。
 琉球王国では一四世紀後半から一六世紀は「大交易時代」といわれ、西の中国、南へフィリピン、ベトナム、カンボジア、タイ、シンガポール、マレーシア。北は韓国・釜山、日本の堺へとつなぐ交易ルートをもっていた。また、一八七九年の日本政府による「琉球処分」で王国は途絶え沖縄県として日本の一部になり、戦後はアメリカの統治下におかれ、日本に復帰したのは一九七二年のことだ。
 そうした沖縄の歴史から、大陸的、北方的、南方的要素がまじり、さらにアメリカ的要素が加わって、この地の文化はチャンプルー文化(雑種文化)」と言われ、独自の文化を花開かせている。沖縄の人達は、自分たちの文化が雑種であることに誇りをもっているそうだ。
 僕は、沖縄の魅力の中核を成しているのが、今の沖縄へ至るまでの歴史だと確信した。日本の一つの地として変わっていく言葉。独特の音階から親しまれる音楽。世界一の長寿国である日本で、沖縄が一番の長寿県となった理由でもある料理。多くの被害を受け、今もなお数々の問題を抱えながらも戦争を伝えていく人々。これら全ては、多くの国と交易を行ってきた時代と戦争があったからこそ今ここに存在しているのだと思う。
 この確信に至るために焦点を当てた「おかしい」は、言葉に対するもの唯一つとなった。だが、それはその確信が前段落に挙げた沖縄の魅力の中心に位置し、そこから放射状に「おかしさ」の糸をのばしていたからとも考えている。
 このガイドブックと紙上旅行から得た答えはここまで。続きは実際に五感で感じ取ることで、さらなる沖縄の魅力に近づければ、と思っている。

 参考文献
照屋林賢・名嘉睦稔・村上有慶著 「沖縄のいまガイドブック」(岩波ジュニア新書) 

魂込めを読んで|1B21堤 康平

 「戦争なんてするもんじゃない。」これが、僕の率直な感想であり、改めて思った事です。では、なぜそう思ったのかを述べてゆきたいと思います。
 この本の舞台は現代の沖縄です。主な登場人物は、ウタという老婆と、幸太郎という五十歳くらいの男。幸太郎は乳飲み子の時に両親を失ったために、よく「魂」を落としてしまう子どもだった。幸太郎に限らず、小さな子どもは驚いたりすると「魂」を落としてしまう時があり、そうするとウタが魂込めをしてやるのです。しかし、今回は幸太郎の魂込めがうまくいきません。
 ほろ酔い気分で浜へ降り、気持ちよく三味線を弾いていた幸太郎は、そのままそこで寝てしまいます。そしてなんと、寝ている幸太郎の口の中にアーマン(オオヤドカリ)が侵入し、そのまま住みついてしまうのです。よく考えると、もの凄い事になってるなぁ・・・なんて思いながら読んでいたりもしました。
 ウタはその後も幸太郎の魂込めを続けます。すると、ついに幸太郎の魂が動き出し、行き先は・・・なんと産卵中の海亀。するとウタは、この日が幸太郎の母オミトの命日であり、この場所がオミトの最期であったことを思い出すのです。
 時は一九四〇年代。ウタやオミトが暮らす村はアメリカの空襲により壊滅状態でした。話は少しそれますが、僕の祖父は弟を連れて一生懸命逃げたんだよ、と話してくれる事があります。僕はその話とこの本の話とが重なって、この一文を読んだとき、何か非常に大きなものに心を打たれ、また痛みました。さて、ウタとオミトは洞窟に非難しました。僕は最近テレビの特集で、戦争の時避難場所として使われた洞窟というのを見たばかりだったので、その光景を頭の中に浮べる事ができました。暗い中で、家族ごとに身を寄せ合っている様子を思うと、本当に戦争の残酷さ、冷酷を感じます。ある日ウタとオミトは食糧を求め、洞窟から抜け出しました。畑からわずかな量の芋を採り、洞窟へ戻ろうとしたその時でした。日本兵がそばを通りかかりましたが、間一髪セーフ。それから一時間が経ち、すっかり安心したオミトは浜へ海亀の卵を採りに行ってしまいます。浜は見通しがよく危険なので戻るようにウタは止めました。しかし、次の瞬間「パン」という銃声と共にオミトの体は横倒しになりました。「戦争」という言葉を耳にすると「国と国の戦い」に注目がどうしても集まりがちです。しかし、僕はこの本を読んで、「国の中での問題」というのも見つめる必要があるのではないのか、と思うようになりました。日本兵がストレスを日本国民にぶつける、しかも「殺す」という最悪の形で。僕は怒りを通り越え、憤りさえ感じました。国と国との争いは絶対してはいけない。さらにしてはいけない事、それは強い者がストレスを弱い者に最悪の形でぶつける事なのだと、僕はこの本を読んで確信しました。
 時は現代に戻ります。海亀が産卵を終え、海へと戻ってゆくのを幸太郎がついて行こうとします。ウタが懸命に引き止めていると、フッと幸太郎の魂が消えてしまったのです。ウタは走って幸太郎の家まで戻りましたが、幸太郎はすでに息を引き取っていました。死因はアーマンによる窒息・・・まぁちょっと現実離れした所も、この作品の良い所なのかもしれません。その後、アーマンは強引に幸太郎の口から引っこ抜かれ、最期はスコップで突かれて死んでしまいました。ウタは、このアーマンはオミトの生まれ変わりだったのでは、とひらめきますが、僕はそうは思いません。なぜなら、自分の息子をこんなグロテスクな形で窒息死させる母親なんていないと思うからです。
 戦時中、生活を共にした人がいなくなり、独りになってしまったウタ。この本の最後に「ウタは立ち止まり、海に向かい、手を合わせた。しかし、祈りはどこにも届かなかった。」とあります。ウタの孤独感が感じられると同時に、戦争は何もかも、仲間さえも奪い去ってしまうのだ、と筆者が訴えている様に思え、非常に心に響くクライマックスだったと僕は思います。
 戦争、絶対反対!

沖縄の言語について|1C21 城生剛之介

 来年、沖縄へ研修旅行に行くにあたって、沖縄についての知識を深めたいと思いました。そのためにはいったいどんなことを調べれば良いのか、どんな知識を身につければより深く沖縄のことを知ることができるのかと考え、今回、沖縄の方言について調べることにしました。その土地の言葉を知るということは、同時にその土地の歴史や文化を知ることにもつながりますし、その土地の人々とコミュニケーションをとるためにも重要です。そこで、いくつかの沖縄の方言に関する本を読み、沖縄の言語について簡単ではありますがまとめてみました。
[ウチナーグチとヤマトゥグチ]
 沖縄が一九七二年に本土に復帰してすでに三〇年。敗戦後の米軍政下での「アメリカ世(ユー)」よりも復帰後の「ヤマト世(ユー)」の方が長くなりました。しかし、広大な米軍基地は依然として存在し、二一世紀を迎えても「基地の島」の現実を背負いつつ人々は暮らしています。
 第二次大戦後の米軍統治時代、本土との切り離し政策ともかかわって、「沖縄語」教育の本格的な検討がなされ、一部でウチナーグチ(沖縄口)が称揚されました。しかし、一九四八年以降は本土での教科書が輸入されて使用され、ウチナーグチは教育用語にはなりませんでした。
 沖縄で許されていることば・方言をウチナーグチ(沖縄口)、本土のことばをヤマトゥグチ(大和口)と称してきました。クチ(口)というのは、物を食べる口も意味しますが、ことばという意味もあります。このウチナーグチという表現はおおむね首里、那覇など沖縄本島南部のことばを指しています。本島北部、宮古、八重山などのことばはその中の方言として位置づけられて、琉球文化圏内ではウチナーグチとはあまり言わないようです。
 ウチナーグチは本土のどの方言ともいちじるしくちがいます。それでも注意深く観察すると、標準語とのあいだに対応関係があることに気づきます。たとえば雨はウチナーグチではamiと発音し、米はkumi、骨はfumiといいます。標準語の母音のeがウチナーグチではiになり、oがuに変化します。aiueoの五つの母音のうちeとoがなく、三母音化しているのが、ウチナーグチの大きな特徴です。
 ハヒフヘホは昔パピプペポと発音したことが知られています。花のことを古代の日本人はパナと言いました。それが奈良期にファナに変わり、さらに現代のハナに変化したのだと言います。P音からF音へF音からH音へ、時代と共に発音が変わったわけです。
 興味深いのは、P音やF音のような古い発音が今も沖縄に残っているということです。沖縄本島北部のお年寄りは、花のことを今もパナと言い、兵隊のことをフィータイと言っています。
 歴史の変化を受けなかった地域ほど、古い言葉が残っているといわれます。しかしその沖縄でも方言の変化ははげしく、若い人たちはもう、古い方言を理解できなくなっています。お年寄りが去るのにしたがって古い方言が消滅していくのです。その土地のゆかしい人間関係をあらわす方言がなくなるのはさびしいことです。沖縄の方言は、島のあいだでもかなり異なっており、沖縄人どうしでも通じない場合があります。
[ウチナーヤマトゥグチ]
 琉球方言域において旧来の方言の干渉を受けた共通語をウチナーヤマトゥグチ(新沖縄口)とよんでいます。いわば沖縄独自の方言的なまりをもったことば「地域共通語」として中年層以下に定着しています。
 新沖縄口を基盤にする年層者は、旧来の琉球方言の構造や文化をストレートに継承しているとは言えず、そこには言語的にも文化的にも大きな断絶を認めざるを得ません。
 とは言いながら、新沖縄口は、語彙や文法的な言いまわしは東京語に近いが、アクセントやイントネーションは、旧来の琉球方言の特徴を受けついでいます。
 本永守靖氏(一九七九)による、新沖縄口に見られる誤用例を引用します。
(1)方言直訳の特殊な語形。
  ほがす(穴をあける)、とのぐ(とびこえる)、遊びにふれる(遊びほうける)
(2)方言を直訳した語形が、たまたま共通語の語形と同じで、意味や用法のちがうもの。
  ものあたらしくする(惜しい、たいせつな)、やすい問題(やさしい)、靴をふむ=靴をくむ(はく)、そいつをころせ(なぐれ)
(3)方言の慣用句的な言い方を直訳したもので、語形は共通語と同じであるが、共通語の慣用的表現とくいちがうもの。
  かさをかぶる(さす)、たばこをふく(すう)、めがねをはく(かける)、頭をさる(髪を刈る)
(4)動作の主体と対象に混同を生じたもの。
  あした君の家に遊びに来るよ(行くよ)、この本をきみにくれる(やる)、これわたしにあげるの(くれる)
(5)方言の干渉を受けたというより、共通語の類似形と混同し、あるいは他地域の方言をとり入れたもの。
  あきれる(飽きる)、あの人はこえている(ふとっている)

 新沖縄口のアクセントの特徴については、高江州頼子氏(一九九二)による調査の報告を引用します。これは、那覇市とその周辺とを対象としておこなった調査の報告で、語アクセントについても、老年層・中年層、青年層、若年層の三世代分化が見られることが指摘されています。三世代が次のような異なる過程にあるといいます。
(1)方言のアクセントの型の区別の保持
(2)アクセントの型の崩壊
(3)標準語の型の区別のあらたな習得
 老年層・中年層は、「すでに方言を習得した世代」であり、「旧来の方言の語やアクセントの区別を標準語にはめこむ」世代であるといいます。青年層は、「自分のアクセントが自分でもよくわからない世代」で、「方言をすでに自分の言語としてはもっていない層」です。若年層(中学生、小学生)になると、「伝統的な方言の型の区別は崩壊して、標準語の型が全面的でないにしろ体系的に習得されている」といいます。
 新沖縄口は、方言的な色彩は認められるものの、あくまで標準語を基盤としたものです。旧来の方言から新沖縄口への言語変容は、語彙や文法にいたるまで言語構造の大部分をとり変えることです。移入された共通語に伝統的な方言が影響を及ぼすという形での中間方言の形成がなされたのです。その結果、新沖縄口は、いわゆる東京語のなまり程度の特徴を持つ方言にしか過ぎなくなっています。

 言語は、現実の生活の中で生きて使われている以上、常に生成発展をくり返します。しかし琉球方言のばあい、内的変化要因ではなく、外的変化要因によって、その姿を大きく変化させられようとしています。今後ますます共通語化がすすむと考えられますが、それは、新沖縄口としての独自の発展をとげていくことでもあるでしょう。

 沖縄の言語とひとくちに言っても、その種類はさまざまで、島ごとに違い、さらには年代ごとにも違って、それらはまた日々変化し続けています。さらに、ここに挙げた例はそのほんの一部であり、沖縄の方言はあまりにも我々が使っている言語とは違いが多い。しかし、一部には標準語と似ているものも存在し、琉球語と日本語というように区別されていたものが、同じ日本語の一方言として位置づけられるようになったのはうなずけます。
 今回の研究レポートだけではまだ沖縄の言語の知識を少し身につけたに過ぎないので、来年までにはもう少し方言などについて調べ、沖縄のお年寄りの方とウチナーグチで少しぐらい話しができる程度にはしておきたいです。
 参考文献
比嘉政夫『沖縄からアジアが見える』(岩波書店)
照屋林賢 名嘉睦稔 村上有慶『沖縄のいまガイドブック』(岩波書店)
小林隆 篠崎晃一 大西拓一郎『方言の現在』(明治書院)
新里金福 大城立裕『沖縄の百年』(太平出版社)
真田信治『方言の日本地図 ことばの旅』(雄山閣出版)
真田信治『方言は絶滅するのか 自分の言葉を失った日本人』(雄山閣出版)
西岡敏 仲原穣『沖縄語の入門 たのしいウチナーグチ』(白水社)
長田昌明『沖縄方言 使えるうちなー口』(わらべ書房)

『沖縄からアジアが見える』を読んで|1D18 竹内 智紀

 僕は、『沖縄からアジアが見える』という本を読んで、沖縄に対する見方が変わりました。もともと僕にとって沖縄という場所は、イメージし難い場所でありました。なぜなら沖縄は、その島ならではの独特な文化を持っていたし、日本の本土から離れているために行く機会もなく僕にとっては位置的にも、精神的にもとても遠く離れた場所でしかなかったからです。でも、この本を読んでみると沖縄という場所が少し近くなったような気がします。この本は沖縄の文化や歴史について多く触れていて、沖縄に対してイメージし難かった僕に、沖縄という場所のイメージを作るためのとても良い資料となりました。
 僕がこの本で知った沖縄ならではの独特の文化はたくさんあります。例えば、沖縄はかつて独自の王国を形成し、17世紀以降薩摩藩の支配下にあったにもかかわらず異国としての扱いを受けたこともあって、廃藩置県が沖縄にも施行された時には、沖縄は標準語教育にとても強いこだわりを持ちました。そのため政府は、方言は悪いものだと決め付け、そういう考えを地域社会に広めようとしました。学校では、方言を使った生徒を罰するための方言札というものがありました。これは沖縄以外にはありません。この札は学校内で方言を使った生徒の首に下げられました。その人は方言を使う生徒を見つけるまで、その札を首に下げるという罰を受けました。この制度は、沖縄を日本の本土に近づけようとしていて、本土に沖縄も日本なのだというアピールをしているようにも思えます。でも本土は、方言を使う地方でもこういってことは行いません。沖縄と本土では方言を使うことへの考え方がかなり違うのです。
 沖縄は本土の中でも文化が違うということもこの本で知りました。沖縄のある地域と別の地域では同じ言葉が示す意味が違うということです。その言葉は本土では聞かないので沖縄の方言なわけですが、沖縄という小さな島でも方言の種類がいくつかあるのかと思うととても驚きました。しかし、それでは会話をする時に不便ではないかとも思いました。それなりに小さな島の内部で言葉の示す意味が違ってくると、少し遠くのほうへ行っただけで言葉が通じなくなってしまうからです。しかし、こういった面も沖縄の独特な文化なのだと思いました。
 しかしながら、今日、そのような地域ごとの文化の差異や方言がなくなっているそうです。その地域の文化が少し消えていっているのはとてもさびしいことですが、沖縄が本土に近づくにつれてそうなるのも仕方ないなと思いました。僕が沖縄に行く時にどれくらいの文化が残っているか気になります。 

沖縄について|1D10 齋藤 広樹

 僕が沖縄に行ったのは、七年前の夏だった。読谷にある新しいホテルに三泊してゆっくりし、那覇に一泊して平和記念公園の方まで行く予定だったが、台風の直撃に会い、結局同じホテルに泊まり、最後に那覇市内を観光して帰ってきた。海やプールで泳いだり、グラスボートに乗ったり、空や海も美しく楽しい旅行だった思い出がある。僕が今まで沖縄に持っているイメージはそんなものだった。ゴーヤチャンプル、ちんすうこうなどの食物や、「おばあ」などのいる南の島は、ハワイやグアムとあまり変わらないものだった。
 しかし、今回、「戦争と沖縄」、「沖縄のいまガイドブック」、「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕-国内が戦場になったとき」の三冊を読んで、そのイメージが上辺だけのものだったということがわかった。
 まず、沖縄の歴史を振り返ると、ずっと中国と日本の間にあって難しい立場だったこと、長い間薩摩藩に支配されていたことなどは、全く知らないことだった。そもそも、沖縄県というのは僕には当然だったのに、昭和四十七年までは、アメリカに支配されたままで、その時やっと日本に返還されたとは全く知らなかったので驚いた。「戦争と沖縄」の中に<沖縄の人びとは、まさに薩摩にならされ、明治政府以後の圧迫に、さらに日本軍にならされ、いまアメリカ軍の圧迫にならされていたのです>とあるが、沖縄の人達が忍耐強い気がするのは、そのせいもあるのかもしれない。
 沖縄には(ウチナーグチ)と呼ばれる独特の方言があるが、明治時代には喋ってはいけない、共通語(大和口)を使うように統制されたこともあったという。自分の生まれ育った土地の言葉や文化を否定されるなんて、何と悲しいことだろう。そして、沖縄の人達はもっとつらい目にあう。第二次世界大戦の時唯一、国内が戦場になって多くの人達が死んだのだ。その様子は「沖縄の旅・アブチラガマの轟の壕」を読むとわかる。この本は衝撃的な内容で、僕は今まで戦争を軽く見ていたのではないかとさえ思った。原爆も悲劇だが、この地上戦でのむごたらしさ、残酷さは種類が違うがそれ以上かもしれない。
 戦時中、ガマと呼ばれる自然洞窟は避難壕として使用されていた。その中のアブチラガマで起こった悲劇が生き残った人たちによって書かれている。ひめゆり学徒隊の女学生はガマの中で傷病兵の看護を任されるが、次々と皆死んでゆく。手足をノコギリで切断される人、傷口からウジが湧く人、生きたまま死体置き場に置き去りにされる人、頭の狂った人など地獄のような様子は読むのもつらいが、この地上戦にはもっと恐ろしいことがあった。それは日本兵の残酷な仕打ちだ。泣く子を平然と殺したり、敵に投降しようとする人を処刑したり、集団自決を強要する。それが現地住民の犠牲が大きくなった理由だという。日本人同士が殺しあうなんて恐ろしいと思う。
 今まで僕にとっては遠い戦争だったが、沖縄に行ったら是非ガマに行きたいし、平和記念資料館に行って、少しでもその戦争を身近に感じ、二度と戦争を起こしてはならないという当たり前のことを考え直したいと思う。と同時に色々な歴史を経てきた沖縄の文化にもふれてみたいと思う。今、沖縄はブームになっているし、「沖縄のいまガイドブック」を読むと、音楽やエイサーや食物など独自の文化がわかる。沖縄タイムとか、ゆんたくとか、沖縄にはのんびりした雰囲気があり、いやされるという人が多いが、今回本を読んだりして、色々な苦労をした歴史があったから、人を受け入れる優しさがあるのかもしれないという気もした。来年、沖縄に行く時には、前と違った視点で見られると思う。

「ひめゆりの沖縄戦 ~少女は嵐のなかを生きた~ 」を読んで|1E04 岡野 良洋

 僕は沖縄の戦争について書かれた本を読みました。主人公の少女はひめゆり学徒隊として戦場に送り込まれました。
 一番印象に残ったのは、ある壕で出会った看護婦とその母との話で、ある日、母が艦砲射撃の破片を受けて重傷を負ったのです。しかし娘である看護婦は兵隊さんに使う限られた薬を母に使うことはできないと言って治療しなかったのです。もちろん母はその三日後に死んでしまいました。僕だったらそんなこと絶対にできないと思いました。
 また、沖縄戦が住民を巻き込んだただ一つの国内戦であったことや、日本軍が沖縄県民をはじめからスパイ視しており、住民虐殺や壕追い出し、食糧強奪など卑劣な行為をしていた事実を初めて知りました。もう一つ驚いたことは、軍人をはるかに上回る住民の戦死者であったことです。「軍隊は住民を守らない」という教訓までもあるのです。軍人よりも住民の戦死者の方がはるかに多いなんてとても残念に思いました。
 戦争で得ることは、悲しみと敵に対する憎しみだけで楽しいことなど一つも無いことが改めて心に響きました。
 読んでいる途中、もう読みたくないと思うほど悲しいことが繰り返されるのです。主人公の少女は上から降ってくる大砲や、せまりくるアメリカの兵隊から逃げ、その途中、怪我をした兵士の治療をしてまた逃げて、友人が死に、また逃げるといった精神的にも肉体的にも自分だったらとても乗り越えられるものではない現実だと思いました。ましてや、自分が兵士だったらと考えると、自分自身が爆弾となってアメリカの艦隊に突っ込むことができたか、国のために死のうと思ったかと聞かれたら百パーセントできないと思いました。それが戦争のとき、自分とたいして年が変わらない人、すなわち人生の五分の一も生きていない人達が死んでいったなんて思うと胸が痛くなりました。また、怪我をして戦うことができなくなった兵士達には青酸カリの入ったミルクを飲ませて殺してしまうのです。同じ戦友なのに、なぜそこまでしなくてはならないのかと思いました。
 主人公の少女は、命からがら生き残り、戦争が終わった後、戦死した友人の家へうかがうと友人の母は、なぜあなたは生き残ってうちの娘が死ななければならないのよ!などといわれてしまうのです。戦争で辛い思いをして生き残ったのに戦後も辛い思いをしていると思うと涙が出そうになります。最近のイラクでの戦争や、同時多発テロで罪の無い一般市民の人々が亡くなっているのは非常に残念だと思い、今、戦争で辛い経験を乗り越えた日本などの国が立ち上がって今まで以上に平和を世界に訴えないと、人間は同じ過ちを繰り返すだけだと思いました。
 こんなにも真剣に平和が大切だと思ったのは生まれて初めてでした。それと同時に、日本で起きた戦争のことを良く分かっていなかった自分を恥じました。

沖縄についての感想文|1E34前屋 亮介

 私が読んだ本には、琉球王朝の話や日本に復帰するまでの話が書かれていました。しかし、読み終わって頭の中にあるのは沖縄戦のことばかりです。あまりにも衝撃的過ぎて、強く印象に残っています。
 読み終わって正直な感想は「有り得ない」です。「すごい」とか「怖い」という感情を通り越して、今の自分で考えられない内容でした。私は沖縄出身の母を持ち、生まれた場所が沖縄なので、毎年のように沖縄に行きます。ですから、何年か前にひめゆりの塔にも平和祈念資料館にも行ったことがあり、太平洋戦争中におきた沖縄戦についても、ある程度の知識はありました。しかし、今現在の沖縄に行き、戦争の話を聞いてもあまり実感がわきませんでした。最近の沖縄は観光地として注目を集め、とてものどかなところです。海もきれいで、食べ物もおいしいです。そんな現在の沖縄と触れ合った私は、どんなに戦争の話をされても、その実状を理解しきるには限界があったのです。しかしなぜか今年の夏休みの再度沖縄戦の内容を本で読むと、その惨たらしさや悲惨さを嫌というほど痛感しました。私自身、少し成長し命の尊さを少しは理解できているのかと感じることができました。
一九四五年に終わった太平洋戦争。戦後六○年を迎えた今年は、太平洋戦争について知る機会が多くあったように思います。テレビでは「戦後六○周年スペシャルドラマ」と銘打って、各局で二時間ドラマが放送されました。八月六日、九日、十五日はそれぞれ広島原爆投下、長崎原爆投下、終戦の記念日で、ニュース番組で多く取り上げられていたと思います。今回読んだこの本を含めて、そういった戦争関連のテレビ番組などに触れるたびに私は強く何かを感じました。ただ、その「何か」を具体的に言葉で表すのが難しいのです。簡単に言ってしまえば、「命の尊さ」とか「二度と戦争を起こしてはいけない」という想いなのですが、私が感じた「何か」は簡単に一言で言い表すことができるほど浅いものではないと思います。私は実際に太平洋戦争や沖縄戦を経験したわけではないので、この先「何か」を完全に理解することはないといっていいと思います。戦争でなくなった方達の苦しみや悔しい想いはとてつもなく重いものだと思うので、私の胸に突き刺さった「何か」を簡単に理解することはできないと思っています。

 沖縄戦の実相にふれるたびに
 戦争というものは
これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです

 これは沖縄県平和祈念資料館の壁に書かれていた詩の一部です。私も同感です。戦争というものは人間をダメにすると思います。平和な世の中となった今、人を殺せば犯罪者になります。しかし、戦争中に人を殺せば英雄になります。人の価値観を変えてしまう、恐ろしいものだと思います。本には「死者約十八万人」とか「多くの人の命がなくなりました」としか書いてありません。だけれども私はこんなに短い文章で終わらせていいのかと思いました。「十八万人」の人や「多くの人」、一人一人に名前があり、それぞれの人生があったと思うと無念でなりません。本に書かれる沖縄戦の実状は想像するしかありません。しかし、実際の光景は私の想像を絶すると思います。ひめゆり学徒隊の人達はどんな場所で傷兵を看護していたのか。逃げまどう民間人の人達はどんな思いで防空壕の中にいたのか。爆弾を背負って敵に突っ込むというのは一体どれだけ怖く、どれだけ痛いのか。そして一九四五年当時の沖縄はどんな姿をしていたのだろうか。絶え間なく弾や爆弾が飛び交う沖縄とは一体どんなところなのか。これらのことを考えると、とても心が痛くなり、悲しくなり、怖くなり、戦争が心から憎くなります。
 沖縄戦に限らず、戦争の話に触れるといつも「何か」を学ぼうとします。そして今回、この本を読んで、戦争を美化し賛同した人、爆弾を背負って敵に突っ込めと命令した人、原子爆弾を作った人に「人の命を何だと思っている。」と言いたくなりました。

    池宮城 秀意 著  『戦争と沖縄』